メロンダウト

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なぜキャンセルカルチャーは「日本で」やばいのか

キャンセルカルチャーというとリベラルを批判する言葉として使われがちだけれどそう単純な話ではないのではないか、と思っている。もちろんリベラルが特定の属性以外を排除する多様性を標榜し、語義矛盾に陥っていることは少なからずあるにせよキャンセルされているのはなにもハラスメントを起こした男性だけではない。

最近もセックススキャンダルを報じられた某声優が休養を余儀なくされることがあった。広く言えばあれもキャンセルカルチャーとも言える。けれどキャンセルしたのはリベラルではなく声優ファンやメディアなどである。もっと広範に言えば芸能人だったりアスリートに大学の理事などもリベラルとは別の論理でもってキャンセルの対象となるのが今の社会ではある。

 

リベラルは自由という思想性ゆえキャンセルカルチャーに加担すると批判されやすい立場にあるがオタクやメディアもまたキャンセルカルチャーを行っている。政治的には右派であってもヘイトスピーチなどに代表されるキャンセルを行ってきた歴史がある。あるいは行政ですら排除アートなどを使いホームレスを街からキャンセルしてきた。
これらはいずれも排外主義という差別であり、到底許されることではない。リベラルのキャンセルカルチャーだけが問題なのではない。ありとあらゆるところで人の言動や人格は世間という杓子定規によって計られてきたのだ。そこにマイノリティーや多様性という新しい杓子定規を持って現れたのが今のリベラルなのであろう。キャンセルカルチャーはリベラルの専売特許ではなく、画一性に支配される日本社会の特性をよく表している。

 

思い起こせば日本におけるキャンセルカルチャーはとても根が深い問題を孕んでいるように思う。三島由紀夫が言っていた空気に迎合する日本人であったりもそうであるが、新たな価値基準を導入するとその空気に対処するよう動くのが日本人の国民性とも言えるからだ。

リベラル・キャンセルカルチャーとはようするにアメリカのmetoo運動などに端を発したものであるけれど、ジェンダー平等という御旗のもと日本にも渡ってきた。

黒船ではないけれど新奇の価値基準を武器として採用し、日本人の価値観を穿つというのはとても痛快なことなのであろう。先進的な欧米において女性差別は禁忌であり、敗戦国である我々日本国民もそれに準じなければいけないという、グローバルな空気に迎合するのはいかにも日本人的である。


しかし欧米の反差別は個人を尊重するという社会的な土台のうえに築き上げられたものだということを忘れていやしないだろうか。日本とは違い多民族国家である欧米は差別と闘ってきた歴史が段違いなのだ。ドイツにおけるユダヤ人差別やアパルトヘイト南北戦争など差別の残虐さを知っているからこそ反差別が国民のコンセンサスとしてあり、そして最も重要なのが差別をしてきた歴史があるからこそ「人がいかに簡単に差別心を持つか」ということも知っているのだろう。だからこそ差別の構造に自覚的であるとも言える。それはドイツのメルケル首相の演説などでもわかることである。彼女はたびたび「我々ドイツには悪しき歴史がある」と発言することで我々が差別の歴史を持つ国だと打ち出して、そのうえに反差別を唱えている。


そうした歴史的な経緯のうえにたつ反差別と対比して見ると日本のリベラルが言う反差別はとんでもなく「軽い」のだ。さらに言えば、その軽さゆえにあらゆる個人の発言を差別だと認定するフットワークも軽くなっている。ものすごく簡単に言えば僕達は差別と反差別のなんたるかを本当のところ何も知らないのであろう。実際に生活の中で差別されるということは日本にあってほとんどなく、外国に行ってはじめてアジア人差別に驚く日本人はかなり一般的であり、そこではじめて「差別と遭遇」することになる。ほとんど単一民族国家である日本ではよくも悪くも画一性が高く、逆に言えばその画一性により差別も反差別も知らないまま生きている。もちろんその画一性に紛れ込まなければいけないため、在日の方が通名を使わなければいけなかったりするなどの別の問題もある。いずれにせよ日本と欧米は社会の形そのものが劇的に違うのだ。

 

差別との闘争の歴史や個人主義が浸透している欧米諸国と違い、日本人は関係性そのものに重きを置く国民性である。それは悪しきように言えば三島由紀夫が言っていた空気のことであるし、一般には保守や共同体といった古き良き日本の姿として持ち出されるものも関係性に重きを置いている。関係性を前提に日本社会が成り立ってきたことは論を待たない。

それは個人主義化した今日の日本にあっても程度として変わっていない。
こうした日本社会にあって反差別たるリベラル・キャンセルカルチャーがなぜまずいかと言えば誰かをキャンセルした瞬間に関係性が消えてしまうからだ。関係性そのものに重きを置く日本社会にあって反差別は関係性というフィルターを通すと容易に差別へと変わることになる。差別と反差別さえ空気に飲み込まれてしまい画一的になってしまうのが三島が警戒した空気の悪しき側面であり、何が差別かという「支配的な基準」から外れた人間は差別か反差別かという議論さえないまま関係性から排除されてしまう。それが日本におけるキャンセルカルチャーなのであろう。

もちろん差別がいけないことは明らかではある。しかしそれが自明のものとなってしまうと個別ケースに関する議論を吹き飛ばして「反差別にたいして疑義を呈したものを脊髄反射的に差別主義者へと認定する」のがキャンセルカルチャーの最大の問題だと考えられる。それは呉座氏の件を見ても明らかであったし、森元五輪会長の発言や杉田水脈氏の件なども同様にそうであった。発言の是非を問うのは良い。しかしそれには相応の時間をかけてしかるべきであろう。インターネットのように疑似的な民主主義により成否を決して良いものではない。あるいはそれを公的機関や職場などが採用すべきではない。そうした高速コミュニケーションの功罪はいずれ自らに降りかかることになるはずだ。そのピーキーさに付き合わなければいけないような戦々恐々とした社会はとても穏やかとは言えないであろう。


すくなくとも無自覚に反差別を唱えることは日本では慎重になるべきだとは言える。欧米と日本は違うし、日本におけるキャンセルカルチャーは端的に言って「社会との相性が最悪」なのだ。個別ケースにおける是非とは関係なく、日本の関係性を重視する社会ではひとたびキャンセルが発生すれば一足飛びに価値判断を侵食しまうからである。
それはアメリカのキャンセルカルチャーと似て非なるものだと考えるべきではないだろうか。アメリカにおけるキャンセルカルチャーもひどいものではあるけれど日本の関係性はそれを加速させる危険性がある。すくなくともそれは警戒すべきことではあるはずだ。