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反出生資本主義批判~平等、人材、あるいはコンドームについて~

反出生主義の論点は多岐に渡っており、下手なことを書くと猛烈な批判が飛んできそうではあるものの、現代を象徴するキーワードとして反出生主義は飛びぬけて重要なものだと考えている。
古来からの実存、経済的格差、アーバナイゼイション、能力主義、もっと言えば世界の手詰まり感など、その論点は多岐に渡る。
 
最も大きな視座で言えば世界の手詰まり感みたいなものが各所で噴き出てきているのが大きい要素なのであろう。グレタ・トゥーンベリが問題視する地球温暖化も喫緊の課題であるにも関わらず、SDGsなどの痛み止めに走るしかない現況下、グリーンニューディールなるエコと経済成長を同時達成しようという政策も批判されており、資本主義そのものが地球を破壊していても僕達はそれをやめる想像すらできなくなっている。地球温暖化の問題は反出生主義とはあまり関係ないようにも思われる。しかしながらそれらは明確に連関している。この世界の蓋然性という部分で言えば資本主義が最も大きなもので、資本主義によって経済格差が生まれ、資本主義によって都市集約型の生活となり、資本主義によって能力主義が肯定され、その結果我々の生に蓋をし、反出生主義が生まれるからだ。それらに連関する地球温暖化という「未来への負債」も関係がないとは言い難いものだろう。
そもそもなぜ我々は子供を産みたくないのだろうか。実存的なレベルでの苦難は昔の人々も同様に持っていたはずであり、闘争や独裁などの悪が現代よりもはびこっていた時代における生きづらさは我々の想像をはるかに超えるものであったはずだ。過去の人々も反出生主義のような考えを持っていたはずであるが、それでも世界各国で人口は増え続けてきた。ここまで全員が反出生的に生きて少子化を加速させている事態には現代特有の何かがあるはずである。それを愚考したい。
 
現代の問題というと上述した通り多岐に渡りすぎており、個別論点を取り上げているとキリがないのであるが、その中でもとりわけ重要な問題として生きる意味がなくなっていることが数えられる。こう書くと反発を招くかもしれないが、ベタに言って幸福や不幸が人生の意味を為さなくなっているような気すらしているのだ。誤解を恐れずに言えば不幸であることは時に最大の武器である。リベラル的な世界線における貧困者及び被害者は最強のポジションを取ることができる。現実の困窮や実際の被害が大問題であることは付言おくとしても、思想的な価値の優劣で見た場合、不幸であることは自らの発言を正当化する力を持つ。どちらが不幸か、どちらがかわいそうかと永遠とやっているインターネットの様相を見ても、そのような被害者の論理はおよそ支配的である。逆に幸福であることは周囲からの羨望や嫉妬感情に晒され、抜き差しならない生を送ることになる側面を持つ。幸福と不幸は社会的な天秤に乗せられることで平均化される。我々は平等主義によって無意識にそれをやっている。幸福であることは勝ちであると言うこと、被害者が不幸だと言うことのどちらもできず、幸福は社会的価値において無化されているのだ。
以上のような価値判断とは別に、一方の生活レベルにおけるポジションは固定されている。富の偏在や貧困の再生産という問題はあまりにも有名であり、資本主義レベルで見た場合、インターネットの価値判断は現実にはほとんど反映されていない。ごく稀にキャンセルカルチャーによって有名人が退場させられていく程度である。個々の生活は再生産の段階ですでに固定化されているため、上流階級の人間は再生産を実現するために子供に充分な教育を施す余裕を持ってしか子供を産まず、一方の貧困層は不幸の再生産を憂い、子供を望まない人々が出てくる。
 
つまるところインターネットで見られるような平等主義は上流階級にとって見ればセキュリティーの対象であり、貧困層にとって見ればルサンチマンをぶつける憂さ晴らし装置にしかなっていないのであろう。思想的なレベルにおける幸福や不幸は平等主義によって無化され、実際の生活は資本主義によって固定化されている。そのため、いま生きている我々自身でさえその変化を望むべくもない状態にある。
希望も絶望もなく、単にこの生活が続いていくだけなのであろうなという絶対の諦観みたいなものが我々の生に蓋をしている。平等主義が価値を無化し、資本主義が生活水準を固定する。そのような状況にあって子孫を残すことに「意味」があるのかと考えなくもない。こののっぴきならない蓋然的な生がただ漫然と続いていくだけであろうと思い、希望も絶望もない社会に子供を産むことは「意味がない」と考える人がいてもおかしくはない。いや、どちらかかと言えば充分に理性的な判断とすら言えるだろう。自らの分身とも言える子供を産んでも自らと同じような人生を歩むことになるだろうという「意味のなさ」が反出生主義を基礎づけているのだ。
 
「自分のような駄目人間の子供は自分と同じように不幸になる」「自分の顔が遺伝したら子供は不幸になる」という反出生主義でよく見られる言説もその背後にこの社会が固定化されていることが潜んでいる。貧窮している人が子供を産んでも貧困が再生産される社会である以上、子供も貧困になる確率が高い。そうした論理一貫性のもとに反出生主義は成り立っている。
現代にはブレイクスルーがない。たとえば独裁があった時代においては単に独裁者を殺してしまえば社会が変わるという未来への変化を期待できた。現実の諸問題とは別に、変化の可能性という点だけで見れば独裁制のほうがマシなのである。資本主義のように全世界規模でシステム化されたものを打倒するなどおよそ不可能な話であり、変化を望むべくもない状態にある。資本主義で勝つにもグローバリズムによって競争が激化した現代においては底辺の競争に巻き込まれる可能性のほうが高い。今ですらそうである。実際にグローバルな環境にあるのは末端労働者のほうであり、権益を受けられるポジションにいる人のほうがローカルな囲いの中を生きている。それらの格差は今後、より加速していく。冷静に比較すればブルーカラー労働者の子供はより困窮することになる可能性のほうが高い。それは自明である。稀に突飛な個人がイレギュラーとしてブレイクスルーを実現することがあるが、それらは例外的であり、市民レベルで見た時にこの世界はどうしようもない蓋然性に支配されている。そのような感じ方のほうが一般的なものであろう。
もちろん以上のような話とは別に、実際に生まれた子供がどう生きるかは偶然に支配されている部分が大きい。しかしながら子供の将来を「偶然に預けるに足る変化の可能性」が予見できない状態にある。
出産子育てのコア層である20代30代の境遇を考えてみても、生まれた時からこの社会はほとんど何も変わってこなかったのだ。小泉政権に端を発した新自由主義的なものは人々をグローバルな競争へと駆り立て、政治についても民主党に変わった時があるとは言え、事実上自民党の一党支配が30年以上続いてきた。変化の予見可能性という点だけで見れば、この社会はここ30年で完全に固着し、将来の変化=希望を見通せるだけの「土壌」が失われてしまったのである。それが平和と言えばその通りであるが、逆説的に言えば平和とは現在という時間軸にしか価値を置かず、未来への意味が失われた状態とも言える。未来を今の地続きとしてしか見れないことが平和主義そのものなのだ。いまの状態をそのまま温存する。それを平和と呼ぶ。みなが現在に生き、未来への意味を失った状態を資本主義や、それに紐づいた政治が固定化する。グランドデザインを提示できない野党、五輪をやめられない政権、空気に迎合する現東京都知事も現在を温存するという点で見れば同じなのである。そのような固着的社会に子供を産むことは富裕層にとっても貧困層にとっても自己の再生産に他ならない。元来出生は他人を産む行為であったはずだが、時間軸が失われ境遇が固定化された今、子供を産むことは自分(の境遇で生きる別人)を産むことになってしまったのであろう。
富裕層は子供も裕福な生活を送れるために再生産の体制のもとに子供を産み、貧困層に関しては再生産自体を拒否する。
反出生主義が資本主義を内面化して現状追認する仕草であるという話も、それが「現実」の認識として正しくなりつつあるからだろう。内面化というのは心理の問題であると同時に、現実の問題でもある。東京などの都市生活モデルにおいてはいまやすべてが資本主義と連関しており、「生の余白」みたいなものを塗りつぶしている。恋愛すらも資本の論理によって駆動され、生活も人間関係も資本主義と連動した能力主義によって判断される。愛する人だけいれば人生は充実しているみたいな昭和的な話もいまや空疎に響く。愛する人を見つけたり、生活することですら充分な教育を受けて収入を確保する必要がある点で、恋愛すらも資本主義と過度な連動をしはじめ、再生産の鎖に縛られている。それが「現実」なのであろう。
それを過度な内面化や現状追認というのはそうであるが、それは心理というよりも、もっと大きな蓋として我々の生を覆っているのだ。そのような現実が「グローバル」に生きる労働者の率直な判断であり、反出生主義はその結果に過ぎない。グローバルな世界に生きる労働者は、底辺への競争においてグローバルに資本主義を内面化することになる。一方のローカルな富裕層とマイルドヤンキーだけが子供を産む。そのような構造になっているのだろう。
 
性欲が結実した結果「動物的に」生まれる子供とは違い、子供を人間として産み育てることは時間軸と連動している。未来への希望が持てる状態、もしくは未来が変わるという予見可能性のもとに子供を産むことがおよそ理性的な判断である。資本主義や平等、能力主義などによって時間軸としての未来が実質的に奪われている状態で子供を産み育てようと思えるはずもない。
反出生主義ほどに理性的な判断はない。おそらく少なくない人々が反出生主義者のことを落伍者などのレッテルを貼って見ているのであろうが、そのような事を言っている人々でさえグローバル労働の地平に飲み込まれ、反出生主義を内面化する日は遠くない。国内経済が縮小し、人口が減れば内需でまかなっているローカルな日本企業も国際競争の地平に晒され、数多くの労働者同様に底辺への競争が始まるはずである。反出生主義は、この社会の状況を鑑みた時、理性的な判断において正しい。
 
付随して言えば資本主義ににおける「入れ替え性」も反出生主義を加速させる側面がある。資本主義は究極的に言えば人間を入れ替え可能なものとして配置するシステムだと言える。メリトクラシーによって人材として錬磨され、労働者として入れ替え可能なものとして扱われる。まだ少子化の波が来ていなかった昭和などでは企業への帰属意識があり、入れ替え可能な存在であることを人間に突き付けてくる趨勢はそれほどなかったのであろう。雇用が流動化するようになり、個人が資本主義の中で最適に配置されるようになると、自らが入れ替え可能な器でしかないと多くの人が自覚するようになった。そのような社会においては、出産すらも自分と自分を入れ替えるだけの行為でしかないと、そう捉えられても不思議ではない。貧窮している自分と子供を入れ替えても「意味がない」のである。その点において反出生主義は静かなるテロ行為であるとすら言えるだろう。
 
この社会の大多数を占める労働者が子供を産みたいと思えない。少子化も反出生主義もおよそそのような文脈で説明がつく。労働者階級の固定、貧困の再生産、富の偏在、教育の機会不均衡、リベラルメリトクラシー、ブルシットジョブ、そしてグローバリズム。これらすべてが労働者にとって子供を産むための障壁となり、コンドームのように「彼の将来に蓋をしている」のであろう。