メロンダウト

メロンについて考えるよ

反インターネット論者としてのひろゆき

2ちゃんねる創設者のひろゆき(敬称略)がインフルエンサー2位になり、政府に助言したと話題になっている。賠償金云々の問題は脇に置いておくとして、なぜ彼があそこまでウケているのだろうか。

個人的に、ひろゆきは反インターネット論者だと思っている。ひろゆきほどに日本のインターネットを代表する人間はあまりいなく、彼をネット論客として見る向きもあるけれど、むしろ逆なのではないだろうか。

近年、ネット上ではエコーチェンバー(先鋭化)現象が事を欠かず、政治的な議論においては党派性に埋没したものを多く見かけるようになった。ツイッターをはじめとしたネット空間でのそれは多くの人から見ると「近づきたくないもの」に成り果ててしまったのだろう。下手なことを書けば立花や福永や「は」の人に訴えられてめんどくさいことになる。君子危うきに近寄らずではないが、政治や議論が党派性に吸収されるとNoと言うことすらできなくなり、しまいにはどんな批判も誹謗中傷扱いされ「この指とめよう」キャンペーンのようにリベラル友敵理論の肥やしとなる。

 

実際問題、今のインターネットで政治的発言をすることは時に極めて危険であり、それこそネット上のプロトコルを事前に知っていなければ返す刀で全身傷だらけになることがほとんどだ。その意味では民主主義的な言論空間自体がすでに破綻しているわけであるが、それを解体してくれるかもしれない人物がひろゆきなのかもしれない。そのような希望的観測を持つことがある。

ひろゆきの言うことはほとんどが意趣返しというかカウンターであり、なにか意味のある発言をすることはほとんどない。発言に意味を持たせることを意図的に避けているようにも見える。いずれにしろ彼の議論のやりかたは、すでに多くの人が指摘しているように、質問をぶつけその発言の穴をついていく論法である。相手の意見を議論の俎上に載せ続け、自らは意味のある発言をしない。ゆえに無敵の論客としてありつづけられる。

このひろゆきのやり方が上述したようなインターネット空間へのカウンターとして支持されている。単に痛快なのだろう。実際にフェミニズムネトウヨを相手取り、批判を展開しているが、そうした発言を市民レベルですることはもうできなくなっている。ゆえにひろゆきが必要とされている。政治的な言論空間それ自体に反発を持っている人はとても多いけれど、自らが発言することは費用対効果がとても低い。実際に訴訟に発展するケースもあるし、仮に自分の意見が相手に届いたとして「だからなんだ」という問題もある。インターネット上でちゃんと議論が成立して「いたとしても」、それがどうしたのかと思わないでもない。ネット上で議論されるようなどっちつかずな政策を議論したとて、エンタメ以上のものにはならない。

現実に反映されるのは「保育園落ちた日本死ね」「女性の人権」「LGBT」「嫌煙」などバーンと言ってしまえる議論以前のものだけで、議論になるような賛否両論の問題は政府の委員会で決定される。その意味で、インターネット上で議論することが実効的にはほとんど無意味であるし、仮に議論が成り立っていたとしてもいまや数を持ったインフルエンサーの肥やしになるだけである。左を批判すればネトウヨ扱いされ、右を批判すればパヨクと呼ばれる。旧はてな村のような隔離された空間で議論そのものをやりたい人だけでやるのであれば良いが、Hagexさんの件でそれも不可能になった。空間として閉じられているからこそ発言が開かれる。端的に言えばインターネットは開きすぎた。

ツイッターがその代表であり、開かれた空間においては数を持っている人間がポジショントークを繰り返すようになり、彼らの指先三寸でフォロワーが同調するだけなので議論のていをなさない。批判が批判として成立するようなある種のコードを共有している空間の大切さを最近はとみに感じるのだ。

党派性に縛られた勢力、既得権益によって旧態依然とした政治(ハンコ議連等)は間違っている。それでも自分で批判するのは訴訟リスクを抱えるだけだし、クソリプ扱いされるだけなので意味がない。なのでみなが黙っている。

しかし、黙れば黙るほどに政権内部もそれを批判する勢力もエコーチェンバー化していき、ポリコレやフェイクニュースなどの問題が現実に侵食し、ついには顕在化してくる。最近もYoutubeを見た母がネトウヨになったという記事があったけれど、ああいうのを放置しておくと近しい人が深淵に飲み込まれる、抜き差しならない社会で生きるはめになる。実際にそれはすでに起きていることなのだ。

 

それを破壊してくれる可能性を持つ人物がひろゆきなのかもしれない。ひろゆきの質問攻めによって象牙の塔が崩壊する様を僕たちは見たいのである。ようするにひろゆきは代弁者なのであろう。その点においてひろゆきが賠償金を支払っていなかろうが関係がない。むしろそういうコレクトネスから離れたところにいる証左としては賠償金未払いはキャラ付けとしては都合が良いくらいであろう。

もちろん厳密にいえばひろゆきの言うことをそのまま受け取ることは歓迎すべき態度ではないし、ひろゆきが間違っていることも多々あるであろう。それでもなおひろゆきのスタイルは市民オンブズマン的な形をとる限りにおいてのみ、とても痛快なのである。