前回の記事を読んでもらえればわかる通り、もうネットは虚無であるみたいな感覚に支配されていたのでブログを書く気力が湧かなかったのですが、このままにすると放置しかねないのでちょっと書いていこうと思います。
炎上クリエイターの増田がはてなにあがってきて読んだけれど、いよいよもうまともな議論ができる場所ではなくなってきてるんだろうね、ネットは。
関連して白饅頭さんや東浩紀さんも同じようなことを言うようになってる
ネットニュースは「炎上」を追いかけることより、「炎上」をつくりだすことの旨味に気づいたのだろう。
— 白饅頭(御田寺圭/光属性Vtuber/バーチャルツイッタラー)🌔 (@terrakei07) 2021年2月22日
炎上クリエイターやネットニュースの件に関してはクリエイトしてもしなくてもたいして変わらないんじゃないかな。もともとネットで出回ってる情報の9割(特に政治的なことに関して)は影響力のある人から発信されるもので、市民はそこに賛意を示すだけになっていて、その情報がどこからきたものなのかは、はっきり言ってしまえばどうでもいいんですよね。
炎上目的のニュースにしろインフルエンサーの発言にしろたいして違いはない。キノコの山とタケノコの山程度の違いでしかないわけで。市民の声を拡散してインターネットが民主主義をアップデートすると言われてからもう10年以上経つのかな。実際はメディアやインフルエンサーの釣り針に引っ掛けられて大漁のPVを集めるだけの「数字」=「いいねを押す機械」と化しているのが僕達であり、そしてその数字を集めるのに躍起になっているのがインフルエンサーが支配するいまのインターネットとなっている。
僕達はそれに釣られてキノコの山とタケノコの山のどちらが美味しいかなんてことをいつまでもやってて、ようするにすべてが虚無なんだよね。いまさらすぎる話で、たぶん3年前ぐらいにも同じようなことを書いたと思う。
すべてが数字に収斂していくのは昔から変わらなくて、昔で言えばアフィリエイトサイトのSEOやコピーライティングにアルファブロガー、アルファツイッタラーが今のYoutuberやインフルエンサーに変化しただけで、ネットの構造そのものは変わってない。つまるところ提供されたプラットフォームにいかに戦略的に適応するかのゲームをネット民は一生やらされていて、それが政治的議論をも飲み込んでしまったのが今起きていることなのでしょう。
なので何をいまさらという感が強い。古来からしてネットは数字に支配されていて、たとえば自分のブログみたいな「市民の声」が政治的影響力を持つことは永久にない。そのようなインターネットは昔から変わらない。インターネットは市民が声を上げる権利は保障されていても、それが影響力を持つかと言われたら昔からなかった。数字および数字を持つ人間の指先三寸ですべてが先導されていくインターネットが市民の声を拾うことは事実として無いのである。
このへんの虚無感みたいなものがネットの表には表れてこないんですよね。理由は明白で、数字を持っているインフルエンサーにとって見れば今のような状態のほうがむしろ好都合ですらあるのでネットそのものを批判しようとはしない。それは炎上クリエイターであるメディアも同じで、見せかけの道徳に発火するだけの市民は数字として計算しやすいので資本的に望ましいのである。だから誰も虚無だとは言わない。
しかし僕みたいな泡沫ブロガーから見える景色はだいぶ違う。インターネットは政治的な意味で言えば昔から虚無そのものである。このへんの認識はいわゆる議論めいたことを書いているブロガーが共通して感じるものなんじゃないかな。穏当な記事を書いても読まれることはほとんどなくて、ちょっと違うことを書くと炎上してPVが伸びる。それに味をしめたブロガーが誤って炎上記事ばかり書いてしまうようになることもある。
つまり炎上させなければ読まれず、炎上させなければ市民の声としての機能を果たさない以上、炎上させるのが戦略的に正しいとなっている。そうでなければ個人の意見になど誰も興味がないわけで、ようするに炎上させなければ虚無で、炎上させても虚無なんので市民レベルで言えば政治的議論におけるインターネットはどちらにしろ虚無に着地する。もちろんブロガーと言っても意見を書いている人は限られているので、日常を綴っているブロガーはその限りではないけれど、意見や議論といった事に関して言えばもはや虚無に飲み込まれるしかない。そして意見や議論が虚無である以上、市民がそれを行う「メリット」がないので無党派層が多くなり、意見や議論の結果としての政治も虚無に飲み込まれていく。そしてその無党派層の数を論拠にして数をあつめるインフルエンサーが
「なぜ市民は投票に行かないのか、このままでは自民党の一党支配ではないか」
と批判するのをここ10年以上やっているのがネット上の政治的議論となっている。
つまりネットで政治に関して議論するというのは市民レベルで見た時には、もう数字をいじくりまわして党派性に酔う気持ちよさを追求するだけの遊びでしかなくなっている。影響力を持っている人はそれがわかっていないのだと思う。なぜ僕達が政治をやらないのか、議論をしないのか、なぜ無党派層が多いのかを説明すると議論をしてもメディアやインフルエンサーが行使する数字に圧されて実効的な意味を持たないほどにネットが開かれてしまった以上、議論をすることや投票することの価値が喪失していて考えることすら「馬鹿馬鹿しい」からである。よく無党派層のことを平和ボケという誤った認識をしている人がいるけれどそうではない。民主主義下における自らの票の価値がネットの動員という数と比較して価値がなくなっているので、単に政治が馬鹿馬鹿しくなっているだけである。
しかしこういうのも数を持っている人から見れば好都合な話になる。いいねを押さない人間を必要としないインターネットが虚無だと考え、議論から退出していく市民が増えれば増えるほど党派性に縛られた勢力及びそれを先導するインフルエンサーの影響力が強くなる。
じゃあなぜおまえはこんなブログを何年も書いているのかという問いがきそうなので答えておくと
そういうのが馬鹿馬鹿しいと内心で思いつつも、たまにこうやってブログを書くのは自分にとってみれば思考整理であり、それ以上にもはや「業」なんですよね。