メロンダウト

メロンについて考えるよ

リベラルの誤謬~反差別を掲げることによって生まれる差別~

誰かを嫌う自由や差別する自由ってもう何度も話題になったことだけど、あらためて考えるとよくわからなくなる

増田は2つの「嫌う自由」を混同してるぞ

LGBTを嫌う自由はあるのか

 

まず差別が駄目だということは大前提としてあるにせよ反差別が行き過ぎると人がなに考えてるのかよくわからなくなる。たぶんそれが増田の抱える違和感なのだと思う。

今の差別問題は、嫌いだということを口にすることができないような圧力がかけられている。

差別の本質を見ようとせず、迫害された人間を擁護することが差別問題の解決だと思っている。

それこそが一番の差別であることを理解しようともせずに。

差別のない世界とは、誰もが当たり前に存在して、誰もが当たり前に自分に正直でいられる世界のことではないのか。

一体どちらが差別的な人間なのか、もう一度みんなに考え直してほしい。

と増田が書いているけど、この話って差別ではなくてもっと一般的なレベルにおいて対話が成立しなくなってることに近いんじゃないだろうか。差別を引き合いに出してるけど、増田の抱えてる違和感はもっとベタな感覚的なものだろう。

「正直にいられる世界」と書いているけど言い換えればそれは対話が可能な世界のことであって、対話すら不可能になりすべての感情を内心の自由に押し込む世界ははたして正しいのか、あるいは持続可能なのかといった問いだと思う。増田は差別をしたいわけではなく対話をしたいのだろう。ゲイのどこそこが嫌だよねと言えば差別だと言われる世界で増田の認知が他者によって変更されることはほとんど不可能になっている。そういうことを言っているのだと思う。

たとえば僕が「こういうところがゲイは嫌なんだよね」と誰かに言えば普通は「そんなことないよ、こんな良い人もいるよ」と返されたりして対話が成立する。そしてそのような対話によって価値観が更新されていくのが普通の人間の行いである。しかし「差別はいけない」というのを大前提に掲げると増田のような人は価値観を更新させるための対話すらできない状態になって、価値観を更新する機会を持たぬまま一生自身の差別心と付き合わなければならない。

対話をする前段階で「差別はいけない」と言ってしまうとゲイのことを理解して学習する機会を奪ってしまう。しまいには「差別は内心では自由だ」というお題目を引っ張ってきて差別と対話を社会の表からは一挙に消滅させて、ついでに人と人との軋轢そのものを滅殺してしまう。

そうしてみんな何を考えてるのかわからなくなり、二重の意味でポーズ(対話による価値観の更新が不可能なこと、差別的話題に触れずリベラルっぽくふるまうこと)するようになる。

こういう反差別がいきすぎた結果出てきたのが合理主義への反逆という意味でトランプだったりしたけれど、それは別にして実際問題誰が何を考えてるのかが不明な社会になってきてる。僕なんかはみんな自分が何をヘイトしているのかどんどん言ったほうがいいと思ってる。あるいは差別すらも対話をする意志がある限りにおいては「有り」だとすら思ってる。ヘイトスピーチや在日差別及び人種差別みたいなものは絶対に駄目だけど、時と場所を考えて対話できる環境にあれば自身の差別心(好き嫌い)を吐露するのは善いことですらある。そう思っている。でなければ自分と他者を架橋して理解しあう価値観が生まれるわけもない。個人の思考や価値観を開くのは常に他者(広義の)であるかぎり他者との対話を断絶する反差別を謳うリベラルが差別的であるのは増田の言う通りだと思う。

ブコメでは内心の自由と差別を表明することは別であるとみんな書いているけど僕はそう思わない。内心を更新するには差別を話題に対話する必要がある。その意味で差別を表明することと内心とは地続きと考える。別ではない。対話をすることによって自己が他者へと開かれ、自らの差別心を更新できる。しかし今はその対話ができない。表明すること自体が差別となっている。表明できないので対話ができず。価値観の更新もできず、差別心を解消する機会もない。その点において差別の表明を不可能にした言説を展開することが逆説的に差別を生む土壌となる。

内心の自由で勝手に思っていろというのはむしろ差別を生むのである。このへんについてリベラルはあまりにも無邪気だと思っている。個人の自由がいきすぎると個人の内心が更新不可能になり、全体としての自由な社会から遠ざかることになる。

 

こういった対話の不可能性については差別(好き嫌い)に限った話ではない。もっと広義には怒りを表明できないことや告白してはいけないこと(告白ハラスメント)なども数えることができる。つまり自らの感情を誰かにぶつけることを悪だとしてすべてを内心に押し込んで起きている問題と同じなのだ。

怒りに関してはアンガーマネージメントが重宝されるようになったり、告白=恋愛に関してはマッチングアプリなどによってマッチングした相手との合意のすえに告白が可能となっている現状を踏まえると、ようするに感情(差別心、好き嫌い、恋愛、怒り)がもはや猥褻物として取り扱われているのである。

そのような社会がはなはだ生きやすいと言えばそうであるが、それが人間的な社会かと言われると窮してしまう。

ものすごく雑に言えば全員ちんことまんこがついてるんだからちゃんとちんことまんこの話をしようというただそれだけの話である。おまえのちんこは悪いちんこだ、ちんこを見せるなと言うのはわかるけれどそう言うお前のちんこはどうなんだ、見せてみろ。このリベラルの皮をかぶった包茎野郎が。ということを増田は書いているのだと思う。

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