メロンダウト

メロンについて考えるよ

「私」の終わり、エヴァンゲリオンの終わり

シン・ エヴァゲリオンを見に行く前に書きたいことがある。見たあとでは書けないかもしれないから

先日から追っているエヴァ関連の記事等で以下のような発言を見つけた

 

ネタバレなしの『シン・エヴァンゲリオン劇場版』初見感想

ネタバレなしの「何を感じたか」すら見たくないのは、多分エヴァ特有の何か。

2021/03/08 15:55

b.hatena.ne.jp

 

これらのコメントがエヴァエヴァである所以だったのかもしれないと、振り返るに思う。25年前のあの時あの時代、シンジとは何だったのか、僕達はなんだったのだろうか。

すこし振り返って考えてみたいのだ。

前置きしておくとぼく自身はエヴァをリアルタイムで見ていたわけではない。放映当時は小学生だった。エヴァよりもドラゴンボールや連載開始当初のワンピースが小学生当時のメインコンテンツだった。将来の夢に海賊王と書いた記憶がある。泳ぐことさえできなかったのに。

エヴァを初めて見たのは高校生の時に友人にすすめられてだった。アニメを好んで視聴していたわけではないけれど、エヴァを視聴した時に奇妙な感覚を持ったことを覚えている。意味がありげな世界観、人造人間エヴァンゲリオンの正体、何かを言っているようで要領を得ないゲンドウやゼーレの面々、そしてあのラストシーン。アホだった私には到底理解できず、それでもなぜかシンジに強く共感したことだけは今でも覚えている。僕にとってのエヴァンゲリオンはシンジの物語だった。アスカやレイも当然魅力的で、オタクと呼ばれていた人達はみなレイとアスカの話ばかりしていた。しかし僕にとってはシンジのあの不安定な人間性こそが魅力的に写ってしまい、しょうがなかった。それはたぶんに年齢のせいでもあった。高校生という不安定な時期にエヴァに触れていなければ僕もレイやアスカのことを語っていたのかもしれない。

 

なぜあそこまでシンジに共感できたのか、エヴァが終わる今だからこそ考えてみたいのだ。

はじめに、僕達は共同性を失った世代だとしばしば言われることがある。社会的な言説ではよく言われることで、僕達はどうしようもなく「私」に閉じられている。

昭和や平成初期のころのような共同性、人間関係の中に「私」が埋め込まれていた世代と僕達とでは物の考え方そのものが異なる。集団の論理によって動き、仲間意識が強い過去の人たちと比べ、僕達はどうしようもなく「私」として生きていかなければならなかった。その善悪についてここで語るつもりはない。ただ、かつてそういう状況に僕達はあったというだけだ。自分探しという言葉が流行ったりした。「やりたいことを見つけなさい」ということもたびたび言われた。意識高いという言葉が流行りだしたのもこの頃だったのではないだろうか。自由が何よりも尊重され、私が私に閉じられた僕達は存在そのものにたいしてわけのわからない不安を抱えていた。学生だった僕もそのような言い知れない何かに晒されていた。その状況、意味不明な世界、わけのわからない不安、存在の不確かさ、それらが僕達をとりまいていた。そのような現実世界とエヴァンゲリオンとはまさに完璧に重なっていたのだ。

ミサトさんに連れてこられていきなり初号機に「乗れ」と言われるシンジ。あのシーンが僕達を取り巻いている世界と重なっていた。理由の喪失、説明の喪失。シンジがそうしたように、それでもとにかく何かに乗らなければいけなかった。僕達自身も。理由もなかった、共同性という背景もなかった。物語さえなかった。ただ、とにかく乗らなければならなかった。

大人は自由に生きろと言った。ひどく抽象的に、である。やりたいことをやれと。その意味不明な大人の言動とエヴァの意味不明な世界観。それは完全に僕達が生きる世界と地続きだった。大人も語らない、庵野も語らない、誰も語らない。とにかく誰も語らなかった。説明してくれなかった。自由も、夢も、世界も、ネルフも、セカンドインパクトも、使徒も、誰も何も説明してくれなかった。そして「私」としての僕だけが忽然と残っていた。どうしようもなく意味不明な世界、そして私として取り残されたシンジと僕達。それが僕にとってのエヴァンゲリオンだった。

世界は意味不明だった。それは今でも程度問題としては変わっていない。ただ諦めただけだ。あるいは考えることをやめた。目の前の生活のほうが大事で、適応を始めた。ただあの時感じたものだけは覚えている。シンジがエヴァに乗り始めたように、僕達も何か始めなければならなかった。それが偶然に強制された何かにしろ自分で見つけたものにしろ依然として世界は意味不明で、暇な時にいろいろ考察してみるもののやはりこの世界は意味不明なままだった。エヴァンゲリオンも同様に意味不明だった。ユイの存在、セントラルドグマロンギヌスの槍サードインパクト、理解するための断片的なピースは出てくるものの依然としてわからなかった。そしてただ時だけが25年間、過ぎていった。

 

僕達は自由という監獄の中を生きていると誰かが書いていた。 自由な「私」に閉じ込められていて、かつての共同性のようなものはもう機能していないと。それは僕が子供だった当時からそうだった。なにもかもが自由で「私」だった。一般的に、子供が何をしようと自由だという「私性」は誰もが納得する答えであり、それは明らかに正しいことであるけれどその正しさを子供だった僕達は消化しきれないでいた。あるいは単純に不安だった。世界の意味不明さも、自分が何者であるかも、その存在すらもなにもかもが不安だった。

それを見事に象徴していたのがエヴァンゲリオンだった。シンジだった。

今はもうわからなくなっている。わかるのはただ終わったということだけである。

 

SNSが普及し、ネットによってつながり始めた現在の若者はかつての「私」とは違う世界観を持っているだろう。それについても善悪を語ることはしない。もはや意味不明な世界は存在しない。意味が不明であれば都度検索する。今はそういう時代である。しかしそれは「私」の終わりをも意味している。かつて孤独で不安な存在としてあった「私達」はもういない。

とにもかくにも終わった、のである。

それでも記憶だけは残っている。私としての記憶、エヴァンゲリオンの記憶。

翻るに、その私という原風景が冒頭のコメントにつながるのではないだろうか。

世俗の評価など知ったことではない、人が何を感じたからすら見たくないのがエヴァンゲリオンエヴァンゲリオンたる所以だった。私性に閉じられている。私として語りたい。それぞれの私のエヴァンゲリオンがある。

その私性は時に監獄と呼ばれたりすることがある。しかしそれ以上に、僕達にとってそれは「聖域」でもあったのだ。

 

 

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