メロンダウト

メロンについて考えるよ

宿命としての非実在サイゼリヤ論争

なにか人生がのっぺりしてきていよいよネットになにか書く熱量が失われてきたのだけどちょうど良いのっぺり具合の話題を見つけたので言及してみようと思います。
サイゼリヤで喜ぶ彼女』というイラストがツイッターでシェアされ話題を呼んでいる。

 

関連してはてなブログのたにしさんが非実在サイゼリヤという観点から批判を書かれていた。
 
 
非実在や仮想的という言葉を見るとすぐにボードリヤールのことを思い出してしまう。
ジャン・ボードリヤールは『宿命の戦略』にて消費社会では「意味が置き換えられる」ということを書いている。物や人、あるいはサイゼリヤが「本来持つ意味」は「記号としての意味」に置き換えられる宿命にある。意味が消えるのではなく記号独自の新しい意味作用によって本来の意味が消滅する。サイゼリヤは本来「イタリアンレストラン」であるけれど大衆店という記号のほうが重要な基準として消費されてしまう。それはなにもサイゼリヤだけではなく多くの企業や個人が否応なしに巻き込まれている事態でもある。
産業革命以降、技術革新が進められ「物」が飽和すると人々は物にイメージを付与しそのイメージを売ることで経済成長を目指すようになった。物の効用には限界があるため、物が飽和すると物に付与されたイメージを売るしか術がない。それをボードリヤールは戦略的宿命と呼んだ。ゆえん「物それ自体」ではなく「物に付与された記号」を売買することで僕達は経済を回している。金融商品をはじめいまやほとんどの物は仮想的であり非実在的イメージのほうを上位の価値基準として売買している。企業がコンプライアンスやハラスメントを過度に警戒するようになり、広告会社が莫大な権力を持つようになったのも実際の商品よりも企業イメージや商品イメージのほうが今の社会においては重要であるからであろう。イメージを売買するのは企業にあっても人にあっても変わらない。
極度に偶像化し理想化したイメージを売るアイドルや芸能人もまた記号として置き換えられ、シミュレーション操作された世界の駒に過ぎなかったりする。
そして最終的に人としての実在性が邪魔になり出てきたのがVtuberなのであろう。非実在的イメージのほうが重要になった世界では実在性(人間存在)が邪魔であり、徹底的に実在性を排除した商品が流通するようになった。金融商品でも株や為替という実在と連動した商品はリスクがあるので仮想通貨という非実在通貨が出てくるようになった。仮想通貨は実在がないゆえにみなが安心して買うことができて爆上がりしたのだろう。実在は非実在、つまりイメージや記号に取って代わられるようになる。それはメタバースと呼ばれたりインターネットと呼ばれたり仮想通貨と呼ばれたりするけれど、いずれにせよ実在のほうが重要という議論こそがむしろ非現実的であるように思う。実在が失われシミュレーション操作された世界、それが僕達が今生きている世界であるのだ。
無論、このような非実在や仮想性に抗うだけの慧眼を持つ人もいる。しかしここで問題とされるのは個々人の能力ではなくマクロな戦略として宿命化され記号により肥満したシステムそのものであるため、個人の能力にその問題を帰責することはできないように思う。
 
 
という斜め上からの観点でサイゼリヤの議論を見ていきたい。
たにしさんは生産的な議論にするために非実在サイゼリヤではなくデートで使える実在の店を紹介しようと書いているけれど、無茶苦茶な反論をするともはや非実在こそが現実であるのが僕達が今生きている世界である限り「非実在サイゼリヤというミームは実在する」のだ。むしろ存在しえないミームなんてないというのが記号化された世界における競争だったりする。サイゼリヤを媒介にして現実のデートの意味をいかに置き換えるかという一見すると無意味に見える議論こそがむしろ現実なのではないだろうか。一言で言えば「記号をつくろうとしている」のだろう。それはたにしさんの言うところの性的ダンピングに近いと思うけれど、女性が社会進出するようになれば性が売れることに気づき、それを安く買おうとする男性に付与されたイメージを象徴したものがサイゼリヤであるのだと思う。イメージ戦争である限りそれは非実在的議論であって無意味に見えるかもしれないけれどそれは現実に接続しうるというのが僕の考えなのだ。
 
実際問題として初デートでサイゼリヤを選ぶ人はいないというたにしさんの指摘はまったくもってその通りだと思う。しかし「まったくもっていない」=「意味がない」とは言い切れないのが今僕達が生きている世界だったりする。記号やイメージとしての意味があとづけされ本来の意味が消えてしまう世界にあっては意味がない言説が存在しえない。意味を無限に付与し、それを売ることができる限り、意味をつくる議論それ自体に警戒しなければいけないこともまた事実ではないだろうか。
 
僕達が「無意味な議論」をしなければならないのは現実がすでに仮想的であり非実在のイメージを取引していることに起因しているというのが僕の意見なのだ。非実在サイゼリヤをできることなら無視したい。が、できない。無視していたら本来の意味がかき消えてしまう。記号化された商品の音響イメージによってサイゼリヤが見えなくなってしまうのだ。それはサイゼリヤだけでなくたとえば恋愛も仕事もなにもかも同様に本来の意味が失われつつあるように思う。
もとを正せばデートではどこへ行ったってかまわないはずだ。しかし現実問題として歳を取ればそうもいかなくなる。若い時のように自由に遊ぶというのは無礼だというイメージによってデート本来の意味が上書きされているのであろう。それを自覚したところで実際に初デートでサイゼリヤに行こうなんて言えば多少失望されるというか「そういう人」というイメージを付与されることは目に見えているゆえにロブション(抽象的)を選ばざるを得ない。イメージが先行するのはどこへ行こうと同じであり、それ自体がすでに記号に支配されているとも言える。
 
僕達はデートでも経済活動でも抗いがたいイメージの中を生きている。おそらくはそれを自覚することから始めなければいけないように思う、もちろんすべてのイメージを解体してフラットにデートし、商品を買うなんてもはや不可能ではある。それでもこのイメージや通念がどこからきているのか、あるいはどのようにして記号が萌芽していくのかということをすくなくとも意識することはできる。
そのひとつが「非実在サイゼリヤ」であり、ネット上でたびたび出てくる無意味に見える議論なのではないだろうか。
 
実在だけを意識し、非実在を遮断するという一見すると現実的な視座それ自体が記号にひっくり返された世界にあっては非現実的なものになるのかもしれない。うっすらとそんなことを思ったりしたのだった。