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子供が未来に閉ざされているのではないか~資本主義リアリズムと少子化対策~

木澤佐登志さんの著書『失われた未来を求めて』を読んでいる。マーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』を軸に現代を取り巻く思想状況を概観する本であるといった印象を今のところ受ける。けっこう難解な部分が多いのだが、印象に残ったのがリー・エーデルマンという人物が参照されていた箇所だ。つまみ食いのような形になってしまうが、エーデルマンの議論をネットで調べてみるとかなり興味深い。
クイア理論の研究者として知られるエーデルマンは「未来のために未来を捨てるべき」と提言している。同性愛が道徳的な多様性に包摂されることを拒否し、差別として語られがちな同性愛の非生産性を逆に肯定してしまうことで尊厳を確保しようとする。同性愛は人口再生産に寄与しないとして右派から差別されてきたが、左派による政治的包摂もまた消極的なものに過ぎず人類社会のためというお題目がよぎる不完全なものだと言う。そこで右派左派ともに共通している観念が未来を前提とした価値基準であると喝破し、その価値を顛倒させる(未来を捨てる)ことでイデオロギーとしての同性愛ではなく実存としての同性愛を肯定しようと試みる。同性愛の(非)人間性や刹那性を、すべてを包囲する資本主義リアリズムのアンチテーゼとして対置することで、再生産の消費構造(ノンケ的世界観)から脱却しようといった議論なのだと、そのような読みができる。
未来という僕達がほぼ完全に内面化している思考に目を向けることで見えてくるものがあるというのがエーデルマンの狙いなのだろう。同性愛についてまわる政治性やイデオロギーをひっぺがすことで生の人間を肯定しようとするが、その思想の射程は同性愛に留まるものではないように思える。とりわけ日本における喫緊の課題である少子化についてエーデルマンの議論は大変参考になりそうである。
 
未来というとほとんどイコールで子供のことであるが、そもそも我々はどうやって未来=子供を見ているのかという疑問がある。僕達は子供や若者に未来を投射するが、では、子供に未来を投射する僕達の視座はどこから運ばれてくるのだろうかという問いが出てくる。そこでキーワードになってくるのが僕達が日々行っている仕事とそれを要求する後期資本主義のシステムである。
マーク・フィッシャーが『資本主義リアリズム』で指摘したことであるが、資本主義が行き詰った時には新規需要が生まれにくくなるため、需要を創出する能力であるクリエイティビティーが要求されるようになる。しかし新しいサービスはそうそう生まれるものではない。そのため、モノやサービスの表象を変えたりして売るための戦略、つまり広告やマーケティングなどの分野が経済を動かしていくことになる。換言すれば予測可能な計算のもとで遺物ーーーすなわち過去ーーーを再生産していくのが後期資本主義だとフィッシャーは喝破した。その再生産性はすべてを追跡し消費構造に組み込んでいく。今や出生も再生産という資本主義の文脈に回収されてしまっていることは論を待たない。年収による婚姻率の違いやマッチングアプリのステータス主義を見るに資本の権威は日に日に強くなっている。産まない人も同様に反出生主義などの再生産を軸にしたイデオロギーに囚われている。すべてが資本主義の構造に組み込まれていき、再生産を繰り返していくたびにそれは陳腐化し、当たり前のものになっていき、誰も不安を抱いたり疑義を呈することができなくなっていく。それが資本主義リアリズムの恐ろしいところだとフィッシャーは言う。少子化に引き付けて言えば、「ただ単に産む」ということをもはや誰も提言することができないでいるのは、資本主義が全面化した結果、皆がリアリズムを内面化してしまったからなのだろう。
 
マーク・フィッシャーは過去からの再生産について批判したが、未来という時間軸で考えたのがエーデルマンであるように思う。エーデルマンは未来からの再生産を「再生産未来主義」と呼び批判した。再生産未来主義とは未来から逆算して現在を捉えるイデオロギーだと理解できる。それは右派左派ともに共通して見られる傾向だと言う。上述したように右派は国家繁栄のための人口維持を至上命題とし、未来のための人口再生産を志向する。左派は未来のためのより良い社会を求めSDGsなどを掲げる。市民レベルで見ても投資・リスキリング・夢・健康・老後2000万など未来から逆算して現在を捉える言説は溢れかえっている。現在から見た未来、から見た現在という形で未来に軸足を置いて物事を捉えることは右派左派市民を貫く支配的なイデオロギーと言って良いだろう。このような考え方は一般的には良いものだとされている。未来にたいして批判的に言及することは御法度だと言って良い。しかしながらエーデルマンはそこに切り込んでいく。未来主義という思考様式がむしろ未来を歪めているとして「未来のために未来を捨てなければならない」と述べる。また、「未来の比喩としての子供は死ななければならない」とも述べている。子供は死ななければならないはもちろん概念的な意味だが、この言葉は少子化対策を考えるうえでも大変示唆に富んでいるように思える。
というのも、未来主義を内面化している僕達は子供にたいし恩恵を与えようと努め、その結果子供が生まれなくなるという矛盾に陥っているからだ。僕達は、かなり一般に、子供に恩恵を与えられる条件でのみ子供を産もうと考える。不自由のない暮らしを筆頭に、お受験、文化資本、留学など子供の人生を助けうるものを用意し、産む。しかし同時にこうした子供のために準備すべきものを見ても子供は生まれた瞬間から未来に埋め込まれた存在として捉えられている。言い換えれば子供は生まれる前から未来という意味を与えられている。さらに言えば子供は未来に閉ざされている点で自由ではない存在だということだ。ちょうど、エーデルマンが「同性愛は左派による包摂によって政治の具として陳列されたことで不自由になった」と語るように、子供もまた意味を与えられた存在である点で不自由なのである。
 
子供には子供が望むべくものを予知し、用意し、産む。当たり前すぎる話ではある。しかしながらこのような未来主義によって「のみ」子供を捉えると逆説的に子供が生まれなくなる。現在主流の、ほとんど批判不可能な「より良き未来を生きる子供」というクリシェ(常套句)を裏返して見れば未来を用意できない家庭は子供を持つことができなくなっていると言えるからだ。未来を用意できる者、あるいは未来を用意できる社会が子供を持つべきだという観念が結果的に「生まれてこない子供」を殺し、生まれてくる子供だけを生かす。そのため、真に平等を望む者であれば「未来の比喩としての子供は殺さなければならない」と、そのように言わなければならない。それがエーデルマンの議論なのである。日本社会を振り返って見ても、少なくない人々は子供にたいして不確定なリスクを負うことは許されないと考えており、「現在のための子供」が生まれなくなっているのは事実である。すなわち非再生産的で単なる情動や恋愛感情の結果として生まれてくる子供は未来を志向せずに生まれてくる子供として事前にパージされるようになっていく。それが再生産未来主義の、言ってしまえば殺人性なのだ。その殺人性がスティグマとして機能し、子供にたいし十分な準備ができない若年期の出生を制限する要因になる。あるいは、日本経済の不況や社会の閉塞感がまったく希釈されずに次世代に引き継がれるという考え方もまた、再帰性に囚われている点から未来主義ゆえだと言えるだろう。子供のための未来という一見すると善良な光が未来の子供のその輪郭を浮き彫りにし、解像度を上げることで人間本来の混沌をかき消してしまうのである。結果、人材は産まれても人間は産まれなくなる。
 
このような出生を取り巻く状況を見るに、政府の少子化対策がその目的とは裏腹に機能してしまうのを理解するのは難しくない。右派が「日本の未来のために子供をつくりましょう」というステートメントを発したり、左派が「子供の将来のためにシングルマザーを保護し、育児給付金を出そう」とすればするほどその言葉は行為遂行的かつ同時に行為非遂行的に機能するといった矛盾を生んでしまう。子供=未来であるという閉ざされ方をしている限りはこのような袋小路から抜け出すことはできないだろう。つまるところエーデルマンが未来を拒否し同性愛の非生産性や非政治性、欠落を含めた実存をまるごと肯定しようとしたように、子供もまた非生産的な存在としてまるごと肯定するような考えが必要とされている。そのために程度として未来を拒否するという選択もないわけではないように思う。なればこそ今この瞬間に子供が欲しいという「短絡的だが人間本来の機能、つまりは本能」が再起動することになるのではないだろうか。
 
 つまみ食いのような議論になってしまったのは、まあいつものことなのだが、「再生産性」「逆算性」「計算可能性」などの「理性」を今一度見返すことで「人間を生む」ことができるようになるのではないだろうか、なんてことを考えてしまった。今の出生のありかたは現在の価値観で未来を幻視し、そこに適応できる「人材」を産むというものにすら見えてしまうが、そのようなフィードバック・ループに囚われている限りは資本主義リアリズムの再帰性がもたらすレギュレーションの枠外に飛び出すことができないのである。突き詰めて言ってしまえば僕達はもはや人間をかぎかっこ抜きでは産むことができないでいるのだ。見方を変えればそれは殺人的だとすら言える。現在支配的な倫理=未来主義ははたして正しいのか、今一度再考してみても良いのかもしれない。
 
 
 以下蛇足です。
元来、未来とは神話の類であったように思う。2000年にハルマゲドンが到来して世界は崩壊するとか、ドラえもんが誕生するとか、自動車が空中を走るようになるといったものだ。そうしたものは一部の狂信者によって信じられるものに過ぎなかったし、フィクションとして楽しまれるに限定されていた。しかしいまや僕達は未来を現実に引き付けることで幻視しそれを恐れるようになった。メリトクラシーや親ガチャなどのネタバレ的観念によって未来をリアリスティックに幻視し、その再帰性=未来に閉ざされている。子供だけでなく、たとえばAIが人類を超えるというシンギュラリティもある種のリアリティーを持って語られるようになっている。または陰謀論が政治的なプレゼンスを持つに至るのもすべてが消費財として現実に組み込まれる資本主義リアリズムゆえなのかもしれない。過去、神話が終わり、SFも終わった。しかしそれらはより現実的な手触りを持って再帰してくる。過去と現在と未来を紐づける過剰現実観=未来主義=捕捉可能史観は自らの将来だけでなく子供にたいしても適用されうる。その結果、出生は必然の再帰に支配される。未来を考えることが現実的戦略だというのは言説としてはもはや逆効果なのかもしれない。情報化によってすべてが羅列された世界においては未来の予測可能性が高まりすぎて、未来が閉ざされると同時に現在すらも閉ざされ、出生も閉ざされてしまう。その時、逆説の逆説、つまり無限に追いかけてくる資本主義リアリズムの再帰性をさらに再帰させる=未来を捨てることが今この瞬間を捉えうる唯一の方法なのかもしれない。