colaboの件について大変話題になっているけれどどうも言及する気にはなれないでいた。
今のところcolabo側の会計処理が杜撰だった可能性や東京都のチェック体制が甘かったりといった状況であるが、まだ疑惑の域を出ていないため、具体的なことは2月28日に出る監査結果を待ってから判断したいところではある。おそらくはabemaで安部敏樹さんがおっしゃられていたように事業規模と会計処理能力のズレが本質的な問題ではありそうであるが。なんにせよまだ判断は保留したい。
【アベマ同時配信中】「大空幸星&安部敏樹&藤田孝典と考えるコラボ騒動」1/9(月)よる9時|変わる報道番組 アベプラ - YouTube
それよりもこの問題がフェミとアンチフェミ界隈の殲滅戦のようになっているのはあまり喜ばしいことではないように見える。
暇空氏が行っている住民監査請求は市民の権利であるため、それ自体を否定するつもりはないが、界隈がここまで盛り上がっているのは過去の表現規制問題と地続きであることはおよそ間違いないだろう。colabo代表の仁藤氏が過去に温泉娘などにたいする規制を訴えアンチフェミニズムを敵対視してきた。逆にアンチフェミや表現の自由界隈の人々は仁藤氏のような立場をラディカルフェミニズムとして批判してきた。暇空氏もそうした文脈、つまり表現を燃やす人にたいする敵愾心を動機にしていると述べているようである。いずれにせよこれまでツイッター上で行われてきたフェミとアンチフェミのイタチ合戦が終わり、その舞台を裁判に移すようになったと見て良さそうである。
自分もラディカルフェミニズムには反対の立場ではあるものの、しかしこのような殲滅戦になることが望ましいものだとは考えていない。仁藤氏の言動がどうであれ、若年被害女性を支援する事業には社会的意義があるのも事実だろう。また、彼女の言動が女性の社会的地位向上に資することだってある。彼女にたいして批判する点があるとすれば女性だけでなく全体への想像力も持ってほしいというぐらいのものだ。フェミニズムにせよなんにせよ思想や正義、あるいは弱者支援自体が構造的に視野狭窄に陥りがち(ラディカル)になるのはしょうがないことだとすら思っている。若年女性が貧困に至る現場を知る仁藤氏からすれば穏当なフェミニズムもまた現実に即していないように映っているのだろう。逆も然りである。アンチフェミニズムが「女性をあてがえ」という暴論を披露するのもまた男性の苦しみを鑑みれば程度として理解できてしまうのだ。
つまるところあるひとりの人間がほとんど偶然に目にした「かぎかっこつきの現実」に拘泥し、そこにはまりこんでしまうというのは自然なことである。ラディカルであることがむしろ現実味を帯びた思想になることだってあるだろう。しかしやはりそのラディカルさは問題である。社会的な話ではない。発信する当人にとって望ましい状況ではないのだ。そこで考えるべきなのはそのはまりこんだ正義や思想なりからいかにして抜け出せるかである。フェミニズムでもミソジニーでもどちらでもそれは同じことである。そしてその役目は裁判のような殲滅戦では決してかなわないことであろう。
偶然に拘泥しはまりこんでしまった「沼」からひきあげるのがつまり言論の役割なのである。無論、そんなことはいまやある種の理想論ではある。しかし言論や批判という外部からの応答によって沼から引き揚げ、「正義の棘」をそぎ落とすことで外部への想像力が働くようになる。本来的にはそれが言論の社会的意義ではあるのだろう。あるいはツイッターやブログのようなコミュニケーションサービスもまた理想上の理念としては同様のものを持っているはずだ。いまやそうした言論の役割を説くのもいささか空虚に響くのも事実ではあるが。
なんにせよフェミとアンチフェミが裁判を通して殲滅戦になるのはいよいよ言論の役割も終わったのかもしれない。今まではアンチフェミがフェミニズムへのカウンターとして反論していたけれど、colabo側が「いいねやリツイートも訴訟対象にすることを検討している」と述べていることからこれまでのような議論は委縮せざるを得なくなってくるだろう。それは暇空氏にたいするフェミニストも同様である。
ツイッターでリプや引リツを飛ばすのは事実上部分的に制限されるのでせいぜいこうしてブログで抽象的でどっちつかずの話に終始するのが関の山である。なので個人的には何も変わらないのだが、暇空氏が今般の件を「ロシアとウクライナの戦争」に例えているのは言いえて妙だなと思ってしまった。
というのも、ちょうど年末に先崎彰容さんが文芸春秋100周年のイベントに登壇されていてこんなことを仰っていた。
「平和というのは牧歌的なものではなく双方の緊張関係、つまりパワーバランスが均衡した状態のことを言う」
文言が正確かはわからないが、ここでは意味だけ通ればかまわないので気になる方がいれば詳しくは下記リンク先を見ていただきたいのだが、この先崎さんの指摘はフェミとアンチフェミの関係にも適用しうるように見える。
https://bunshun.jp/bungeishunju/articles/h4786
フェミニズムとアンチフェミニズムのどちらが正しいなど僕にはわからないが、そもそも論として男女が生物学的に違う人間である以上、そこに緊張関係は生じざるを得ないはずだ。身体的にはそれが視覚的にわかりやすいが、心的な動きもまた明確に違ったりするのだろう。それは思想的にも同様である。身体が違うのであれば経験が違う。そして経験が違ければ考えてることもまた違うはずだ。
僕も長年見てきたほうではあるけれど、結局のところ女性を守ろうとするフェミニズムと男性の立場を代弁するミソジニーは部分的に対立せざるを得ないものに見える。これだけ男女平等が叫ばれる時代にあってもやはりその壁を取り払うことはできない。おそらくそれは原理としてそうなのだろう。
しかし現実的には男女で明確に対立するわけにもいかず「平和」を守らなければならない。そこで先崎さんの言葉がヒントになる。つまり男性と女性それぞれの考えてることは原理的に異なるし対立してしまうものの、その対立構造そのものを温存し緊張関係を維持し続けることがつまり平和なのである。牧歌的に、あるいは子供のように男女の差異を無化しようとすることでは男女平等を実現することはできない。なぜなら、そうした奔放さや自由を喧伝すれば、上述したように個々の人間が持つ経験から生み出されるラディカルさからは逃れられないからである。そうではなく、男女の差異を認識しその対立を直視し、受容することが平和=男女平等を実現する手立てになるのだ。
その点でフェミニズムとアンチフェミニズムが対立関係にあるとしてもネット上の議論が全部無駄などということはない。代理戦争による緊張関係が言論への「批判への批判への批判」といった形で無限訴求的に緊張を生み出す。それがつまり平和なのである。
その意味でもやはりいいねやリツイートも訴訟対象にするような裁判によって敵対勢力の言論を委縮させることは賛同できない。会計処理の件は正してほしいものの、界隈がこの話題に集中し殲滅戦の様相を呈しているのは、これまでの緊張関係が瓦解し平和から遠ざかっているように見えるのだ。
※ネット上のフェミニズムやミソジニー界隈が平和に資するなどというのもまた理想論に過ぎず、むしろ友敵理論を駆使し敵対勢力を悪魔化しているだけであるみたいな批判がきそうではあるが、おそらく全員がインターネットをやめ経験に閉じられた時こそ差別が横行するようになると思う。社会が情報化する前のほうが差別は多かった。おそらくだが漸進的には社会は良くなっているように見える。ただ、目に飛び込んでくる発言や情報が増えただけなのだろう。