メロンダウト

メロンについて考えるよ

戸定梨香さんの件から考える~インターネットの教室性とフェミニズムの奇異性~

戸定梨香さんの件だけどフェミニズムが失墜しようがしまいが「同じ事」になる気がしている。
全国フェミニスト議員連盟Vtuberである戸定梨香さんを起用した松戸警察署に抗議し、逆に炎上している。いまやフェミニズムへの疑義のほうが支配的だけれどフェミ対アンチフェミとして見るのはもう終わりにしたほうがいいのでは、と思っている。
 
性的搾取かどうかという論点及び公にふさわしいかどうかという論点はこれまでもさんざん議論されてきて、そのラインは表現物に依存するというのが結論で、今回の件はそのラインを勘違いしたフェミ議連が逆に炎上する騒ぎとなっている。へそが出ていたり男に媚びている等の批判は抽象的すぎて具体的な表現物を判断するものにはならない。そのため、新しい表現物が出てくるたびにフェミニストが嚙みついて世論の審を問うという形である。もうこの手のフェミの炎上はインターネットの定期刊行物みたいなもので、議論し尽されてきたことなのでここにわざわざ書くまでもないけれど、それよりこのマッチポンプにどんな意味があるのかという虚無感のほうが強いのだ。
 
全体主義的なフェミニストが表現物を攻撃するたびにこちら側もフェミニズムを批判することになるけれど、この手の批判合戦をやればやるほど問題の本質から離れていくことになるのではないだろうか。
誤解を恐れずに言えば表現物による性的搾取といったものに関しては、僕はあると思っている。ポルノなどもそうであるし、インターネット全般(Youtubetwitterinstagram)に出てくる表現物が実際に害を伴って人々に影響することは当然ながらある。いまや語られることもなくなったスマホ依存にSNS依存、ポルノ依存、活字中毒などもそうであるが、すべてを守るあまりすべてを野放しにしてきた側面があることも否定し難い。表現物による善き影響だけが伝播するとするのはさすがに無理筋な議論であり、漫画やゲームなどのコンテンツがもたらす悪影響も当然ながらある。もちろんだからと言ってフェミニストのように取り締まろうとは思わないけれど、問題なのは「何が僕達の社会にとって善き物なのか」という議論がまったくなされていないことではないだろうか。フェミニストの側は「私達の自由」を守るために不快なものを公から排除しようとしている一方、こちら側は何を守るべきで何を規制するべきなのかという見立てをほとんど持っていない。
 
真善美というと古臭い言葉であるけれど、フェミニズムは女権的という意味では一応の価値観にコミットしている。しかし表現の自由を守る僕達はなんの価値観をもってして表現を保守しているのかというと、よくわからない。自由を守ることが崇高な理念であることは知っていても、何が善きものなのかという議論は危険すぎて誰も行えないでいる。中国は国家的に生産性維持のためにゲームを規制しようとしているが、たとえば日本で「少子化改善のためにポルノを規制しよう」と言えばものすごい批判が飛んでくるのは間違いない。一部のフェミニズムが過激な振る舞いをしているせいでスケープゴート的に社会の様相を見誤らせてしまっているが、真に問題なのはむしろ逆で「僕達はこの社会のありかたそのものを議論できない」ことなのではないか。仮に議論したとしても「定義問題」や「エビデンスや論文の積み重ね」などのアカデミズムの問題として提議されるだけに留まっている。僕達が「思ったこと」を語った瞬間に、その発言は個人の感想として処理されるのが今の社会の実勢である。そうした中で語ることは意味を持たず、むしろ何かを語った人間を批判するほうがはるかに社会の空気に迎合的でもあるのだ。価値観を語ることはほとんど御法度であり、仮に語ることができる人がいるとすればそれは社会の空気をほとんど無視するまでに先鋭化した個人及び集団、ようするにフェミニスト等である。
 
つまりこうだ。
僕達は誰も価値観を語れないでいる。規制論や表現の是非を問うような発言は危険すぎて行えない。しかしながらそうやってみなが黙っていけばいくほど、熱量を持った人間だけが発言する言論空間になり、表現の是非について語る人間は過激化し、発言は世論とズレたものになる。その発言をみんなで叩くことでこちら側の連帯も深まっていくが、そうすればするほどこちら側は何も語れなくなっていく。
 
一言で言えば「授業中に先生だけが喋っている空間」が現在のインターネットであるのだ。
授業中に喋り出す生徒がいれば他の生徒は奇異の目で見て、その目の効果によって他に発言したい生徒がいたとしても発言できなくなり、そしていっさいの奇異さ、つまり価値観それ自体を失っていくのがインターネットの本当の深淵なのではないだろうか。フェミニズムが奇異の目を向けられるのは現状を考えれば妥当な反応ではある。しかしより俯瞰して考えるにすべての奇異さを俎上にあげ、教室という空間を保とうとしているのが僕達がやっていることでもある。その教室の圧力は表立って現れてはこないけれどあらゆる発言の妥当性を問い、すべての価値観に奇異の目を差し向け続ける限り、発言できるのは先生だけになる。そして先生、つまりネット上で数を持つ人間の指先三寸で生徒である僕達が右往左往しているのが現在のSNSだと見てほとんど間違いないだろう。そして奇異な行動を取る生徒は先生に通報することで排除していくという「方法論」がおよそ支配的なのだ。
 
こうした「空間的方法論」とでも呼ぶべき構造そのものを見直さない限り、SNSの問題は収拾がつかなくなるどころかますます過激化し、「同じこと」になると思っている。特殊な個人がいても教室という場所は依然何も変わらないのだ。チャイムが鳴ればまた次の授業が始まるように、明日も明後日も教室の圧力に我慢できなくなった人が騒動を起こし、奇異の目を向けられるであろう。それを通報し、炎上させることで教室という空間は保たれるが、そうすることで空間の蓋然性は増し、ますます発言することが難しくなる。
 
「インターネットはかつてのような自由な空間ではなくなった」と言われることが最近は多い。その理由はSNSが普及し、すぐに炎上するようになったからだというのが一般的な見解である。ポリコレやキャンセルカルチャーなどもそうした時勢と連動して影響力を強めていると見る人がほとんどだ。しかしながらまったくの逆なのではないだろうか。ポリコレやキャンセルカルチャーを批判することでインターネットという空間を守ろうと思えば思うほどに、発言の敷居を高め、「生徒の雑多性」は消えていき、結果として自由は失われることになった。もちろん「排除する人々を批判する」のは正しいことでもある。しかしその喧嘩の現場を見て、面白がる人もいれば離れていく人もいる。自由という空間を守ろうと思い、自由を脅かす人々を批判するのは正しいことではある。しかしながらその正しさがどこに向かうのか、「他人を見る他人の目」にたいし時に生徒は敏感になり、自主的に自粛するのだ。そしてそれがマジョリティーの感性なのではないだろうか。そのマジョリティーの感性に寄り添わない限り、いくら正しさを戦わせたところで同じことになる。
今年になりツイッターを始め、タイムラインを眺めるにつけ、けだしそんなふうに思うのだ。