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機会平等的自己責任論~若者への外出自粛要請は間違っていた~

結果の平等と機会の平等、という概念がある。平等は一概的に言えたものではない。それがほとんど考慮されてこなかったのがコロナ禍である。

機会の平等は教育機会の平等などがそれにあたる。コロナ禍における一律の自粛要請も同じように機会の平等だと言える。外出やレジャーなどの機会を全国民が平等に負担し、一律の自粛をすることでコロナを抑え込もうとしてきたのがここ二年余りの日本社会であった。

あらゆるところで平等と言われてきたがそのほとんどが機会の平等に基づくものだった。「平等な自粛」「平等な給付金」「平等な医療」などなど様々あるが、こうした機会平等的スローガンによって結果の平等が蔑ろにされてきたのではないだろうか。

 

たとえば家族と独身者を比較してみてもステイホーム時に発生する結果、つまり感染リスクや生活実態は同一ではない。家族と同居している人は家族にうつすリスクがある一方で単身世帯での感染リスクはゼロである。コロナ禍において主要な感染ルートである家庭内感染であるが、「家庭内で感染するのはしょうがない」「ステイホームという平等な自粛の結果」という社会的合意によって結果的に見過ごされてきた。もちろん家庭内感染を批判したわけではない。

ただ、であるのならば独身者が家族をつくろうという行為=外出も認めなければ矛盾することになる。家族と一緒に暮らし、共に食卓を囲み、一緒に映画などを見て興じる時間と独身者が一人で家に籠るのとでは生活実態としてまったく違い、結果として不平等になる。そのことについてあまりにも考えてこなかった。それがこの記事の論旨である。

ほとんど暗黙的にステイホームがルールとなった世界において機会の平等「だけ」を御旗に結果の平等にたいしてほとんど考えてこなかった。

 

若者の外出自粛についても同様に機会の平等によって彼ら彼女らの人生を事実上損なってきたのだ。言うまでもなく10代20代における経験や人間関係は人生において極めて重要なものである。特に恋愛については学生時代における出会いが非常に大きなウェイトを占めるのが日本社会である。社会に出れば年収や学歴などの形骸的な指標で判断されかねない。そのような社会にあって学生時代の恋愛はとても重要なものなのだ。合コン、サークル、クラス、部活などがそうであるが、そういった人間関係を形成するための大事な場所をすべてシャットアウトされてきたのがここ二年余りの若者の実態である。それが重大な遺恨を残すことになるかもしれないという危惧さえないまま、大学をリモート授業にしたり、フェスに集まる若者を批判し、飲み会を開催する人々を批判してきた。

 

それもこれも機会の平等だけを重視し、結果の平等を蔑ろにしてきた通念によるものであろう。事実としてコロナ禍にあって出生率が下がっているというデータもある。若者が出会う場所をシャットアウトすれば恋愛する機会も減り、生まれてくる命も減ることになる。それらをすべて良しとしてきたのが日本社会である。

家族を持ち、幸せに暮らしている人々にとってはステイホームは家族との時間を大切にできる貴重なものとなったであろう。しかしながらこれから家族をつくる若者及び単身者にとってはそうではない。真に平等を謳うのであれば「若者は自粛するな」という声明を出すべきだった。コロナにおける致死率に関しても若い人はほとんど亡くならないことがかなり早い段階でわかっていた。どれだけのウィルスか判明していなかった第一波の時であればまだしも第三波以降に関して一律の自粛は要請すべきではなかっただろう。大学もキャンパスをあけるように政府が要請すべきであった。せめても一人暮らしの人は外に出て人と会いましょう、家族と共に家で過ごせる人は家にいましょうぐらいのことは言うべきであった。そうできなかったのは機会の平等があまりにも根付いてしまって物事を峻別できない社会通念によるものなのだろう。

結果として不平等になっても機会の平等を守ることが優先だというのが現行支配的な価値観なのである。

 

思い返せばこの国における平等とは常に機会の平等のことであった。

今年話題になったマイケル・サンデル『運も実力のうち?』でも機会の平等を批判していた。「出生の平等」が原理的にありえない以上、機会の平等もありえない。したがって受験などは足切りラインだけを決めくじ引きで行えば良いと書かれている。サンデルの本はある意味ではラディカルな平等論であり簡単に賛同できるものではないけれど、機会の平等という言葉が現実社会においていかに欺瞞的かというのを考えるには必読の名著だと思う

もっと古く言えば赤木智弘の有名な論考『「丸山眞男」をひっぱたきたい』にもその面影を見ることができる。

上記リンク先ではようするに今のような格差社会かつ資本階級が固定化した世界においては戦争こそが結果の平等を達成する手段であると書かれている。戦争状態になれば赤木氏のような貧困にあえぐ人でも東大エリートである丸山眞男をひっぱたくことができる。しかしながら今の生活を続けている限り、永遠に自己責任論=機会の平等論によって我々は蔑まれることになるだろうと書かれている。本当に平等にするのであれば戦争状態などのカオスにしてこそ平等は達成され、そこに希望が見いだせるといった論旨である。これまた簡単に同意できる話ではないものの、現実が固定化されている以上、一度それをぶっこわしてくれる戦争のほうが希望が持てるという視座には考えさせられるものがある。

 

 

機会の平等と自己責任論は地続きであるが、自己責任論を批判する裏では機会の平等をベースに社会が回っている。それを決定的にあぶりだしたのが新型コロナウィルスである。

上述した若者と家族の話だけではなく飲食店における一律6万円の給付金も機会の平等によるものであった。当然ながら飲食店によって規模が違うので6万円渡されても経営がたちゆかないところもある。結果は不平等である。

ワクチンに関しても同様に職域接種などにより結果的に不平等なものとなっている。ワクチンに関してはとにかく打ちまくったほうが良いという理念によっていかに平等に打つかというのが覆い隠されているが、しかし結果的にはコネがある人のほうが接種は早い。

もっと広く言えば税金や年金などもNISAやふるさと納税配偶者控除など様々な面で、「機会としては開かれていても結果的に不平等」になっている。それ自体はリテラシーの問題として片付けられているものの、そうして「機会として平等であれば結果として不平等であってもかまわない」という制度設計をしてきたのが日本社会なのだ。

機会として開かれたものを利用しないのは自己責任であり、その結果もまた自己責任だと言う。それはつまり「緊急事態宣言であっても外出を禁止しているわけではない、外出したければしてもいいが、そこにまつわる結果的な非難に関しては受け入れろ」と言っているのと同じことであり、それこそがコロナ禍において支配的な「機会平等的自己責任論」なのである。

それに耐えられるだけの個人などいないし、いたとしても社会的な合意を無視するだけの鈍感な人である。しかしそれ以外の人も外出し、恋愛し、家族をつくる自由及び権利がある。そのためには「社会的な合意として」緊急事態宣言に若者は従う必要などない、若者が恋愛したり家族をつくるためのコストは社会全体でカバーするとはっきりと言う必要があった。

 

しかしながらおよそすべてのメディアやインフルエンサーが「今は『平等に』ステイホーム」と呪文のように唱えていた。

その欺瞞性を絶対に忘れてはならないと、そう思っている。