メロンダウト

メロンについて考えるよ

新型コロナウィルスについて「想う」こと

2回目の緊急事態宣言が始まったわけだけど・・・内容を見るとあまり効果はないだろうね。

病床も既に埋まっているし、これからコロナに罹患すると自宅待機で生きるか死ぬかみたいな状態になることは必至なのでしょう。そう考えると今が一番やばい状況なのだけど、普通に外出している人がけっこういる。政府もメディアも「注意」を喚起しているだけで、「恐怖」を感じるほどの状態ではなくなっている。1回目の緊急事態宣言の時には怖がっていた人が多かったように記憶している。けれどコロナにかかっても意外と死なないと思い始めたのか、あるいは単に慣れたのかわからないがその恐怖心はどこかへいってしまった。ただ注意するだけになっているのが現状で、これからそうとうひどいことになるのはおそらくすでに確定している。

第一波の時に欧州諸国やニューヨークのように大量の死者が出なかったのはみんな恐怖で自宅にひきこもっていた結果、医療崩壊まではいかなかったからで、日本で市中蔓延及びオーバーシュートした場合にどれだけの死者が出るのかはいまだわからないままなんですよね。成功体験によって緩んだ結果、よりひどいことになる可能性もあるし、ファクターXならぬ要因でまたなぜかおさまっていくのかどうなのか。いずれにせよ大量の死者が出ない限り、4月の時のような自粛ムードにはなりそうもない。

状況は何も変わっていないどころか、むしろ悪化しているのにこれほどまでに人々の心性が違うのはどういうことなのだろうか。自分のことに照らして考えるに、結局のところ自分の年齢であれば死にはしないだろうとわかったのが大きいように思える。後遺症などの情報はあるにせよ死にはしないと。それだけでずいぶん心に緩みが出てくる。理解可能かどうかではなく生死というボーダーラインを超えはしないという安心感が恐怖心をおしやってしまっている。なのでもはや死亡者が大量に出始めないかぎり変わらないのだと思ってしまっている。

 

コロナによっていろいろと見えてきたものがあるのでここに書きなぐりたいと思う。

はじめにこの時代の平和について

50年ごとに時代を区切った場合に、これほどまでに平和な時代はかつて無かった。平和といっても震災があったしサリン事件もあった。昭和までさかのぼればあさま山荘事件やら日航機のハイジャックなどあったけれど、国民全員を巻き込んだ戦争は起こらなかった。それ自体は大変良いことなのだけど、だからこそ危機感にたいして鈍くなってしまったのではないかと思う。

人生や自然にたいする戦慄のようなものを考えた時に僕たちの心性はあまりにも無防備で、コロナにたいしても未知のウィルスとしてはじめは恐怖したもののいまや既知のものとして現実に組み込んでしまっている。ウィズコロナといった言葉もある。コロナはただの風邪だといった言説もあったし現実の一要素としてコロナを受け入れ始めるようになっている。理解可能(と思えるように)になった瞬間に恐怖心はどこかへいってしまって怖がることをみんなやめた。まだ医療が崩壊した場合の被害実態は出てきていないのにである。今のような状態を見ていると東日本大震災を思い出してしまう。僕たちは津波から街を守るために堤防をつくった。堤防があるから津波がきても大丈夫だという仮初めの安心のもとに生きていた。港に町をつくり、そこで生活していた。あの時も津波があんなに簡単に堤防を乗り越えてくるものだとは思っていなかった。

コロナに照らし合わせて考えるに今はまだ堤防が決壊していない状態だけれど、津波が押し寄せてくることはすでに確定している。堤防はもはや機能していない。東日本大震災から10年の今こそ思い出すべきであろう。あの時、堤防が決壊してすべてが飲み込まれたあの光景を忘れるべきではないはずだ。

それが理解して恐怖するということで、仮初めの堤防に守られた町で生活することが危険だというのは教訓としてすでに知っているはずだ。未知のものにたいする恐怖心を持つことは動物的な機能だけれど、過去に学ぶことができる人間だからこそ「既知のもの」にたいしてこそをきちんと恐怖すべきではないだろうか。戦争がなく、実体験として学ぶ機会もない平和な時代に生きているからこそ、悲惨な過去から学ぶべき「恐れ方」もあるはずであろう。

 

 

なにかいい感じに書ききった感があるけれどふたつめもあります(笑

「加速主義」について

よくラジオなどを聴いたりしている宮台真司さんがたびたび加速主義という言葉を使って社会批評を行っている。社会がダメになった時に人々は輝くので社会を加速度的にダメにすることでスクラップ&ビルドするのだという、一見するとかなりラディカルな主張なのだけどわからなくもない。ようするにテクノロジーやら法律やらシステムによって飼いならされている限り人間個人が主体的な活動及び思考をはじめることは難しいので社会がダメになればいいと。書いてみるとけっこう無茶苦茶だな。

宮台さんはマックス・ウェーバーなどを引用して法律や官僚制などのシステムは鉄の檻と呼ばれるものだと言う。鉄の檻とはシステムや社会構造そのものを指しており、その中にいると人々は自らそこに安住してしまうために人々はダメになっていくといった意味として使われている。

よく聞く言葉だと権力は腐敗するといったもののほうが有名だけれど、権力に限らずとも権力やシステムの内にいるかぎり人々はそこに留まってしまうのでその権力及び鉄の檻が破壊された時に人間はもう一度人間を始めるのだという。

これは主張としてはとても賛同できないと思っている。思想的統治主義みたいな側面が強く、自由に反しているのが理由で反対したい。しかしながら人間と社会の関係としてそういったもの(鉄の檻)が「在る」というのはものすごくよくわかる。閉塞感と呼ばれるものもその典型だけれど 。

結局のところ今の社会はなにもかも固着してしまっていて、それは政治における選挙制度(供託金や小選挙区制によって事実上党執行部の指先三寸で候補者が決まることなど)もそうだし、ピケティが書いたような経済的格差の問題も、あるいは親の収入によって決定される教育格差の問題もそうで、それを加速度的に一度ぶっこわせばいいのだというのはわからなくはない。僕個人はむしろぶっ壊れてほしい側ですらあるのだけど、それをやった時にはたして「主体性」なんてものが回復するのだろうか。そこに疑問が残る。必ず社会が良くなるというのであれば加速主義もけっこうだけれど、失敗した場合のリスクが大きすぎる。

日本は第二次世界大戦の時に一度ぶっ壊れたけれどいまだにアメリカ追従路線をやめていない。その意味で政治的主体性は戻っていないし、いわゆる戦後レジームというやつの脱却もなしえていないように見える。いずれにしろ社会をスクラップ&ビルドするのはものすごく大きな不確定要素を含むので簡単に賛同できるものではない。それがいかに論理的に妥当に見えたとしてもである。

それは新型コロナウィルスにも言えて、コロナウィルスは社会の新陳代謝みたいな言説はそこかしこで見ることができる。コロナにかかって亡くなるのは高齢者ばかりなので少子高齢化社会においてコロナが蔓延するのは望ましいみたいな、アレな意見である。

今の日本の経済的・社会的問題を解決するのに最も簡単な方法は高齢者にいなくなってもらうというのはすこし考えればわかることで社会福祉の問題にしてもそうだし、高齢者の預貯金を流通させるにしてもそうだ。高齢者が保有している資産を社会に還元することで良くなりはするであろう。それは加速度的によくなるはずだけど、そうやって社会が良くなることを僕たちは望んでいないということをもう一度確認したい。まずもって今の世代が高齢者にいなくなることを望んだとして、僕たちが高齢者になった時に下の世代からいなくなることを求められた時にどうするのかという問題がある。もっといえば単に人権に反する。人権を守るには人権を守るしかないと、確かはてなブログのwattoさんがもう何年も前に書いていたけれど、社会はそういう新陳代謝でまわるようにはできていないし、それはコロナにおいても同様にそうである。命を守るには命を守るしかないという至極当たり前のことを想う。加速主義が望ましいかどうかといった社会のことはそれから考えればいい。社会を俯瞰で見て論理や妥当性に縛られて考えた結果最も大事なものを手放してしまうというのはよくある話で、宮台さんがそうだとは思わないけれど、いずれにしろ加速主義みたいなコントロール的で統治主義的なやり方を僕たちが許しはしないだろうと思う。それはコロナに関する議論を見ていて思うことでもある。

一回目の緊急事態宣言の時にはみんな自粛していたし、コロナへの警戒心が緩くなった今ですら箱根駅伝の沿道で応援する人も例年の15%程度だった。一部自由に行動する人がいる中でも85%の人が自粛しているのを確認できたのは希望のように思える。

それでもコロナウィルスにたいしてはまだ全然足りないのだろうけれど、もうそれでいいのではないかとすら想いはじめている。まだこんなにも自粛する人がいるのだからそれははっきり良い人々と言っていいのではないだろうか。

そうなっているのは日本人特有の同調圧力のおかげでいまだに日本人はシステムやメディアがつくる鉄の檻の中にいるのだと、そう考えることもできるけれどいずれにせよ高齢者を感染させて社会を新陳代謝しようといったもの(コロナを利用した加速主義)には与しなかった。それだけでもう良いのではないかと思い始めている。主体性とかなんやらの話もわかるけれどこれだけ高度に複雑化した世界で主体性なんてものを確立したとしてどこまでその主体性を保持できるのか。そんなあきらめすらある。

だからもうコロナを利用した社会の新陳代謝みたいなものには与しないぐらいの「その程度」でいいのではないだろうか・・・そんなことを想い始めているのだ。