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政治的なことは政治的なこと~りりちゃんの獄中日記を読んで~

いただき女子りりちゃんの獄中日記を読んでいたら「なにもない」というエイズに罹り亡くなられたソープ嬢のブログを思い出した。

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悲しみに暮れた女性が書く文章には独特な感性が宿っていて心に訴えかけてくるなにかがある。
良きように言えば感性ではあるものの、逆に言えば感性が宿る魅力的な文章を書けるということ自体が男性を色恋に落とし込む才能であったりもするのかもしれない。
また、僕のように彼女達の文章を読んで「心にきてしまう」人は詐欺被害に遭いやすい性格なので注意したほうが良いと思った。


こうした感性が良いか悪いかという話をしたいわけではないのだが、りりちゃんが獄中から更新している日記がどこまでも個人的であるのと比べてりりちゃんを取り巻く言説の多くが政治的なものであることに妙な違和感を覚えてしまった。
りりちゃんが書く文章は徹底的に個人の感性、主に後悔と楽観に閉じられている。一方で、りりちゃんをどう捉えるかという言説の多くは政治的なものばかりだ。
りりちゃんの事件は女性差別であるか否かというフェミニストとアンチフェミニストの文脈、りりちゃんを擁護する人は公正世界仮説に毒されている、など。
りりちゃんにたいし同情的であるとフェミニストであり、詐欺師を擁護するのかと批判され、逆にりりちゃんを犯罪者であると言えば女性差別であるといったようなそしりを受ける可能性をどこかで気にしながらみな物を言う。
判決の妥当性について論じる時もりりちゃん=女性であるというような属性でくくられた視点ばかりが語られる。
被害額を勘案する形で「法の女性割」と言ってみたり、「性犯罪よりも重罪なのはおかしい女性は虐げられている」と言ってみたり。そんな具合だ。
そうした言説の数々を見ていると、なにかもう誰もりりちゃん個人のことを見ていないのではないかという気がしないでもない。
りりちゃんが纏っている属性「女性」「詐欺師」「ホスト狂い」「差別」「弱者男性」などの問題を引っ張ってきてみな「いつもの議論」をしているだけに見えるのだ。

そうした言説と対比する形で、りりちゃんが獄中から更新する感性的な文章がSNSで行われている議論のその異様さを浮き彫りにしている。
アングラで生きていた若い女性ということもあってか、彼女の文章からは良くも悪くも世間に染まっていない純粋さがある。
その純粋さがいつも世間の議論をしている人達の凡庸さ(社会性や整合性に囚われてしかもう物を書けないということ)を意図せずに照射しているのであろう。

 

率直に言うと、政治的で分析的な言動よりもりりちゃんが獄中から綴っている感性が乗った文章のほうが僕には豊かなものに見えてしまった。
りりちゃん個人を見るのではなく、りりちゃんの事件を敷衍する形で自説の正当化や政治的目的の為に使用することのいかに貧しいことか、というのが一連の経緯を見ていて感じたことだった。


良い悪い、正しいか正しくないか、差別かそうでないか、という話をするのがみんな好きで、僕もその一員であることは承知しているのだけど、
いつもそうした話をしているといつのまにかその「いつもの判断基準」に囚われてしまい、自分が何を話し書いているのかを忘れてしまうのかもしれない。

もちろんりりちゃんが行った詐欺事件には政治的に語りたくなる性質が多分に含まれていて、それを語ること自体は必要なことであり、特段悪いことではないのだろうけれど、
しかしそうした言説の数々は当人にとって見れば関係がなかったりするのであろう。そして政治を語る人はその「関係がないということ」を時に忘れてしまう。
事件に関するなんらかの政治的条件を見つければそこに原因を見ようとせずにはいられず、その原因に基づく社会を語り、政治を語り、構造を語らずにはいられない。そんな「生き物」なのである。

けれどその構造のうちのどれかは関係があったりなかったりして、そしてそのうちのどれを「言い当てたか」がその論者の政治的言説の信頼度を担保するとしても、でも本当はそんなのは運であったりどれだけ時勢に即した「言い方」をするかに依存しているのが実情なのであろう。

政治はそうしたある種の闘争を含んでおり、それ自体は政治がそういうものだとしか言い様がないのであるが、しかしだからといって「政治だけがすべてではない」のである。


それを思い出させてくれる文章に時折出会うことがある。それが古き良きインターネットの姿だったのだと、なにか久しぶりにそんなことを感じた件であった。