メロンダウト

メロンについて考えるよ

パラダイムシフトへの眩暈

すごく同意する記事だった。

fujipon.hatenablog.com

一日中、Twitterで「うまいことを言う」ことばかりを考えている人間や、職場やお客さんや赤の他人を公衆の面前でバカにしてばかりの人間を、誰が信用するというのか。

 

私もたぶんうまいこと言おうとしてる側の人間で、意見を発信しているほうではあると思う。ただ同時に意見や主張が持つ攻撃性みたいなものから距離を取ったほうが良いんだろうなとも感じている。あの事件以来というわけでもなく、もうたぶん3年ぐらい前からネット言説は功罪で言えば罪のほうが大きくなっているのではと思っていた。それはツイッターはてなブックマークに限らず、SNS全般が抱える問題であり、もうインターネットは議論に耐えうるプラットフォームではないのだとすら思う。

 

ツイッターはいわずもがなブログでも何か政治的な意見を主張する時には読む人によっては耳が痛い話になるだろうし、何を書くにしても攻撃性を背負わざるを得ないものなのだろう。政治から攻撃性を0にすることはたぶん不可能に近い。できるだけ0に近づけることで多くの人に届くようにしようとするのが理想的ではあるけど、それには相応の卓越性が必要であるため、あまり一般的ではないように思う。私などはまったくできていない自覚がある。

インターネットで政治的主張を書くには次善策として穏当さを同時に提供しないといけない。あるいはその主張をネタ化する必要がある。「生のままの主張」を書き出すと読者は離れていき、限定され、それこそエコーチェンバーになってしまう。読む側も同様に「生のまま読む」とその主張にアテられ疲れてしまう。

 

つまり

・エコーチェンバーに適応し攻撃性を内面化することで、攻撃的なのが当たり前として言説を展開する人

・それでは駄目だと思い神経質になってしまい政治的言説から離れていく人

この二極に分離してしまうようになったのだろう。

 

とりわけ今のような政治的なイシューが山積している状態だとこうした分断は加速してしまいがちだ。

ロシアが戦争をはじめたことで平和を前提にした議論が吹っ飛んだり

反日活動をしていた統一教会親日保守勢力と言われていた自民党と関係していたり

リベラルが自由から離れていき道徳的啓蒙に腐心するようになったり

政治的な顛倒が様々なところで起きていて、今までの議論はほとんど無為になりつつある。そうした状況では新しい政治を構築するため、新奇で過激な言説がいろいろなところで言われるようになってきている。もしくは今までの陣営も混ぜっ返されるようになっている。経済的にも衰退が目立ち始め、政治が占めるオブセッションが高くなっていることも要因だとは思う。

いずれにせよ今まで支配的だった政治性は終わりを迎えつつあり、山積するイシューがインターネットで議論されるようになるのは当然と言えば当然ではある。

 

しかし同時に今のインターネットが議論できるプラットフォームなのかといえば必ずしもそうとは言えず、それはまた別の問題として転がっている。

 

ひらたく言えばインターネットは開きすぎたことで言説の内容よりも第三者からの評価、つまり数に埋没するようになったのだと思う。

数年前であれば議論を前提とした議論がまだ存在できていて、間違ったことを書いてもまだそれは議論の内側に閉じられていた。間違いを書くと批判され合意形成されるみたいなプロセスが多少なり残っていた。政治や議論はそもそもとして攻撃的であるという自明性があり、なにかを書く時に攻撃性を気に掛ける必要があまりなかった。今のように下手なことを書いたら訴訟されるみたいなことは少なかった。もちろんそうした閉じた攻撃性が暴走するみたいなこともあった(たとえばスマイリーキクチさんの事件がそうだった)し、それはそれで問題だと思うのだが、すべてが開かれることで起きる問題にたいし私達はあまりにも無警戒だったのだろう。

 

すべてが開かれると下手なことを書いても自陣営からのいいねなどにより認知的な整合化を図れるし、批判する側も数を集めるためにトリッキーな論法を使うようになった。あるいはその論法をトリッキーだと言って批判するのも簡単にできるようになった。マンスプやトンポリなどが典型である。

しかしながら問題の根本はそうした論法をランドマークにすることで数を集められるようになったことであろう。通りの良い言葉を使うことでその論法は数を集めるためには機能するがそれが建設的なものかと言えば必ずしもそうではない。むしろその論法やランドマークに視点が集中し単純化されることで複雑な政治性からは離れていってしまう。その結果、政治は複雑なものであるという前提が爆散してしまうことになる。そして単純化した象徴を敵と見なすことでより簡単に対立陣営を攻撃できるようになった。たとえば今や冗談でも言うことができない「アベしね」などにリベラルが埋没していたのは記憶に新しいところであり、その前にはネトウヨ在日特権などをランドマークに「友」の結束を強めていた。

ネットが開かれ数を集めることが一義的なものになると主張を単純化することが戦略として有効になる。それがインターネットの政治的な宿命なのだと思う。単純化することでより一層の攻撃性が醸成され、その「単純な攻撃性」に疲れる人が多く出てくるようになったのが現在の状況ではないだろうかと思うのだ。

 

今のように政治が顛倒し、象徴だった安部さんも亡くなったことで友同士の結束が揺らいでいる状態であれば、そのような状況はなおさら加速することになる。

それに疲れてしまうのもすごくよくわかるのだが、逆に言えばこれだけ混乱している今の状態は「失われた」と言われてきた政治を再構築する機会であるようにも思うのだ。今までの政治性はスクラップになり、なにかよくわからないものがビルドされつつある。その新しさに眩暈を覚えることもよくわかる。

 

たぶんもうみんな何が正しいのかよくわからなくなってきている。単純化されたランドマークが通用しないことに多くの人が気付いている。

友も敵もないまぜになり、個人的にももはや何を書いたら良いのかよくわからなくなっている。しかし何を書いたら良いのか、何を考えたら良いのかと思索することは疲れることではあるけれど大事な作業ではないだろうかとも思うのだ。その結果、今まで政治に参加してこなかった人が攻撃的なことを言うこともあると思うけれど、たぶんその「痛さ」には批判すると同時に耐えるべき時なのかもしれない。ポジティブに言えばそんなことを思う。