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ファスト・イデオロギッシュ・フード~乃木坂46のエイプリルフール騒動に関して~

エイプリルフールに乃木坂46の人気メンバーが同性愛に関する写真を投稿し、一部界隈で炎上する騒動になっている。
左翼系メディアのハフィントンポストでも「同性愛をネタにすることは許されない」という主旨の記事があげられていた。
 
「性的マイノリティをネタとして消費している」と書かれているけど、アイドルにそれを言うこと自体が根深い問題を孕んでいるように思う。
 
レズビアンをネタとして消費するのは許せない」と社会の側に立って批判している人が、ネタとして消費されているアイドル個人の属性にたいしてまったく想像していないように見えるのだ。
「消費」という論点から言えばレズビアンよりも強烈に消費されているのがアイドルである。恋愛は禁止され、ファンのために偶像を演じ、握手会では理想の姿を見せサービスする有様は疑似恋愛などと言われる。いまやそれもひとつの生き方だということになっているけれど、一昔前まではそれこそ「消費」という観点からアイドル産業は批判されていた。今でもそうした批判自体は存在する。恋愛を売り、アイドルを消費するなど倫理的に許せないみたいな古い言説が消えたわけではない。いずれにせよ彼女達は人間を疑似的に消費する社会の代表だとも言えるのだ。
 
冒頭記事はアイドルにたいして消費という観点から批判を加えているわけであるが、それがどれだけの含意があるものかをほとんど意に介していないように読める。言葉を向ける相手の属性にまったく無関心であるのだ。アイドルにたいしネタとして消費するなという批判が「届くはずがない」わけである。普段からそうした消費社会の真っ只中を生きている彼女達はそうした批判も織り込み済みでアイドル活動をしているのだから、「ネタとして消費」は彼女達に向ける言葉として適当だとは言えないだろう。批判は当然ながら批判を向ける客体があってこそ批判たりえるが、ハフィントンポストの記事にはその客体がどこにもいない。ただ同性婚は保護されるべきものだという自説を披露しただけで、この記事に書かれている批判が彼女達に届くか届かないかを問題にすらしていないことは明らかである。
 
多くの報道、もとい「イデオロギッシュな料理」に関して言えることだが、批判できる材料が出てきた時、それをニュースのネタにし、今の時代のコピーをつけて批判しているだけに見えてしまうのだ。情報があっても人間がいない。そうした言説が数多く売られるようになった。
今回の騒動にしてもアイドルという彼女達個人の属性に関心がないゆえに「レズビアンをネタとして消費するのは許せない」という定型文をそこに乗っけただけの批判になる。
ハフィントンポストの記事はエイプリルフールという旬の時期に出てきたネタ(魚)を、常備しているイデオロギー(シャリ)に乗せて提供するいわばお寿司論法とでも呼ぶべき形式的批判に過ぎない。そこになにか正義や表現の問題を見出そうとすることがそもそも間違っているのではないだろうか。
メディアは情報を売っている。ゆえに良いネタが入れば提供する。単にそれだけだったりする。一部のメディアはイデオロギーなどから機械的に判断して記事を生産しているわけであるが、機械により生産された寿司はそれを食べる相手が誰であるかということに関心を持たないのだ。アイドルにたいして消費という観点から批判するという、人間からすると言葉の選び方として倒錯したように読める記事はメディアが機械的に記事を生産していることを暴露している。
いまやそうした機械的判断が資本主義におけるメディアの様態であり、表現や同性婚という正面からの切り口で記事を読むとその生産工程を見落とすことになる。言説の正当性はともかくとして、そうした記事をあまり真正面から捉えないほうが良いと個人的には思っている。
 
より高次に捉えれば今回の騒動と「報じ方の形式」がいかに非人間的なものであるかには気づくことができる。
お寿司が売られるのと同じように、アイドルも売られ、同性婚も売られ、情報も売られ、正しさも売られる。まずもってそうした前提を共有してこそ、粗雑な寿司を退けることができるのではないだろうか。
レズビアンをネタとして消費している」と言う側がさらにそれをネタとして売っているという構造をまず自覚すべきであろう。さもなければ僕達は永遠にこうした情報戦に踊らされ、ページビューを増やす存在になってしまうからだ。
なんにたいしても言えることだけれどあまり自らが主体だと思わないほうが良いと個人的には思っている。
自ら考えているようで実は誰かに考えさせられているだけで、そうした感情を追跡されサジェストされ売られるのが資本主義化したインターネットであり、それに従属しているのが今のメディアであるのだから。そのメディアにさらに従属しているのが僕達読者だったりする。そうした中で表現の自由のような議論をしたところで「主体であるメディアや資本にいいようにやられてしまう」のが関の山なのではないだろうか。
 
表現が抱える問題や同性婚のような「人間くさいもの」が議論になるような場面では発信している側も人間だという先入観を持ってしまうけれど、時にそれは「人間のガワ」をかぶった資本だったり、機械だったり、イデオロギーだったりする。
人間にとっての人間性機械的に追跡発見し、議論の俎上にあげることがつまりここ数年、左翼を中心とした炎上政治の火種となって人間を燃やしてきた根本的な原因だと言えはしないだろうか。それを駆動しているのが資本主義であるわけで。
 
なんでも無邪気に書き込めたかつてのインターネットではもうない。なにもかもが売られる時代だ。高価と見なされるようなお寿司であれば、なおさらである。
無論この記事だって例外ではない。