メロンダウト

メロンについて考えるよ

「推し」がよくわからない

「推し」というのが一向によくわからない。

好きは単独で成立する一方、推しはある種の共同意識の産物であるという論調を見かける。自己完結では終わらず他人におすすめすることを含み、その「人」や「箱」を盛り上げていく振る舞いのことを総称して推しというのが私の認識ではあるのだが、この認識であっているのかどうかはよくわからない。

誰かを推したという体験がないため実感が乏しいのだ。クオリアが足りない。

 

いや、好きなものや人は割と多いのだ。音楽で言えばThe la'sや、最近だと美波は素晴らしいと思う。漫画で言えば噓喰いや中華一番。アニメだと日常なんかが好きである。

とはいえ自分が好きなものを他人が好きかどうかは完全にどうでもよく、仮にネガティブな評価が下されようともなんらかまわなかったりする。もちろん他人におすすめすることはあるものの基本的には自己完結している感情が「好き」であるように思う。(恋愛等は別で)

 

他方で推しというとパッと思いつくのが、最近、飛ぶ鳥を落とす勢いのホロライブやにじさんじなどのVtuberだ。僕も見ることがあるのだけど、あれは共同性を売りにしているところがあるように感じられる。配信内のルールが決められていたりもそうだし、コメント欄を覗くと「良きリスナー」であるよう訓練されている印象を受ける。そうした同じプラットフォームに乗った共同性が「推し」に不可分な要素なのだろう。

 

こうして考えると「好き」と「推し」の違いはその対象が「他人」かそうでないかに分かれると考えられる。

好きは自己完結的な感情であるため、相手は他人であり、言ってしまえばこちら側は勝手に好きなだけである。

一方で推しはプラットフォームを基盤にしているため、共同性を破ることが制限されており、その意味で対象が他人ではない。

 

 

もちろんそんな簡単に分けられるものではないと思うが、好きと推しを区別するとしたら共同性とそれに紐づけられた他者性、その距離感の違いがあると推察している。

 

振り返って考えるに推しという感情の「はしり」はおそらくアイドルが源流にある気がしている。とりわけAKBは顕著だった。彼女達は恋愛禁止という暗黙のルールだったり握手券の販売、つまりは共同性を売ることで既存の「手が届かないアイドル」とは一線を画すものだった。そのルールを破ると議論が巻き起こったりしたが、「そもそもなぜ他人の恋愛を批判するのか」というのは恋愛禁止というプラットフォームがあったためであり、それは共同性を売ってきたAKBにしてみれば向けられてしかるべき批判だったのだろう。消費者にたいし優良誤認させていたようなものであり、一般的な尺度で考えても詮無きことであったように思う。

 

そしていまやこうした暗黙のルールに乗っかった共同的感情、「推し」は社会全体に広がっていっている。何故かを考えるに、推測ではあるが、おそらく「好きでいること自体が共同化された」のが要因ではないかと考えている。

それこそSNSが普及したことで今までは画面越しや作品越しで見ていただけだったファンが有名人や作品にたいして感想を書くようになり、また、有名人や作者もファンの声に反応するようになりより近い存在となった。しかしながら、そうした近すぎる環境にあると距離感がバグった人がリプに直接批判や悪口を書いたりするようにもなった。そしてそこでは批判の作法であったり、ネガティブなことを書かないといった暗黙のルールを敷かざるを得なくなったのだろう。言い換えればもう作者と視聴者が「他人」でいることが不可能になった。

好きでいることは良きファンでいることであり、同時に良きファンでいることは共同体に乗ることであるという具合に好きという言葉の意味が半強制的に共同化されスライドしていったのではないだろうか。ようするに好きという自己完結はまだそれぞれの個人の内には残っており、それを表に出す時には推しへと変換して出力しなければならない。つまりは「外向き、あるいは社会性をまとった好き」が「推し」と呼ばれるものだと疑っているのだが、あっているかはどうかはよくわからない。

 

そんなことよりThe la'sは良いです。おすすめです。

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