メロンダウト

メロンについて考えるよ

ヨッピーさんのツイートを見て

でも強さってなんなんだろうね・・・

いや、ヨッピーさんが子供に強くあってほしいと思い空手を習わせると書いていたのが最近話題で個人的には大変良いことだと思うけどやたらと議論になっているのが気になってしまった。

 

 

ヨッピーさんの意見に賛同する人が大勢だけどフェミニストからは「トキシック・マスキュリニティ(有害な男らしさ)」と言われていた。ホモソーシャルの再生産みたいな香りを嗅ぎつけたのかわからないけど、ヨッピーは主に子供社会というある種の動物的な社会の中で生き抜くためのスキルの話をしているだけでホモソーシャルが良いことどうかかという話はしていないのですけどね。そうした藁人形論法もネットの日常と言えば日常かもしれない。

 

それはさておき空手を習わせた子供がどうなるかというとよくわからないのが正直なところだと思う。

個人的な話だけど子供と一緒にサッカーする機会があってチームスポーツということもありフィジカルとコミュニケーションの成育にはかなり効果があるのだろうなと間近で見ていて思うわけだけど、子供ひとりひとりを見てみるとうまくできないもいてそういう子は小さい体ながら劣等感を感じることもあるようで泣き出すことがたまにある。具体的には蹴ってもボールが浮かず全部転がってしまうというだけのことなのだけど、そういう大人からすると一見どうでもいいことでも悔しいのか悲しいのかわからないけど泣き出してしまう。でもそうやってちゃんと自分の弱さと向き合う機会に出会えたこと自体が子供にとっては一番の財産になるんじゃないかなと思ったりする。ヨッピーが空手に期待するようなフィジカルの強さも強さではあるけれど、それ以上にフィジカルな体験は「できない子」に弱さと向き合う機会を与えてくれるから良いものだと個人的には思っている。強くなるという親が期待するようなことばかりがスポーツの意義ではないはずで、子供はもっと自由にスポーツを捉えているように感じる。

もちろん劣等感を抱えた子供にはフォローする大人や、あるいは友人が必要となるわけで、そうでない場合いじめに繋がることがある程度には危険なのが少年スポーツのもうひとつの側面でもある。自分が見ているチームではそうした優劣が原因でいじめになるようなことは自分が知る限りないけれど、「できないこと」が原因となりいじめに発展しトラウマを抱えてしまうことも充分ありうると思う。目に見えて結果になるスポーツは子供にとって時に残酷で、大人が考えるような和気藹々とした結果にならない時だってあるということは注意しなければならないだろう。

 

空手もチームスポーツではないとは言えフィジカルコンタクトを要する競技で、そこには優劣が生じてくる。したがって、強くなるという目的で空手を習わせたはずなのに逆に劣等感を持ってしまい弱くなる子だって中にはいると思う。でも弱さを知るというのが転じれば強さに変わりうるのでそこをうまく誘導するのが大人の役割なのでしょう。ヨッピーさんはそういうフォローする能力に長けていそうなので、だから「ヨッピーさんの子供であれば」どんな結果になろうとも空手を習わせることはポジティブになるんじゃないかな、というのが当該ツイートを見た時に思ったことで、ようするになんの心配もいらないということだ。

 

逆に言えば「男子は強くなければならない」という観念が強烈すぎてフォローすることができない場合だと弱さや劣等感がそのまま子供に残ってしまう可能性があるため、その場合にはいろいろと考えることが多いのではないだろうか。

というのが個人的な観測であり予測であるが、一個人が予測したところで予測の域を出ることはないので究極のところ子供がどうなるかはよくわからないのが現実なのだろう。統計上の話で言えば早生まれの子は体格に恵まれていないことが多く、フィジカルの領域では成功体験を積むことが難しいなんて話もある。環境的に言えば良い空手道場がある一方で悪い道場もあるだろうし。懸念されうるものを考え始めるとキリがないので、やはりどうなるかはよくわからない。

 

 

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「ヨッピーさんの子供が空手を習う」という話であれば上述した通りなんの心配もないと思っているけれど、それ以上に当該ツイートが批判され議論になっていることのほうが気になってしまった。

批判としてはいわゆるホモソーシャルであったり、男社会と女社会のすれ違いのような論調が主だったものとなる。社会的な話と絡めて子供の将来を心配する声が、的を射ているのか外しているのかは別にして、大半であった。

男社会において強さは重要だという議論であったり、暴力で解決するような子になってしまうのではないかという声であったり、他にもいろいろあるけれど総じて見るとその人が考える「善き子供像」や「善き人間像」を暗に提示している点で興味深いものがあった。

しかしながら他方でそうした大人が考える子供像という考え自体がトキシックであり「行き過ぎている」場合があるのではないかとも思う。

昔、「子供が未来に閉ざされているのではないか」という記事を書いたことがあるけど、ヨッピーさんのツイートを批判している人がまさにそうで、空手というのはあくまでも子供に与える選択肢・触媒のひとつに過ぎず、空手を習わせたことでどうなるかはよくわからないのが現実で、ようするに「たいした話じゃない」のだ。それを牽強付会的に広げホモソーシャルなどの話に接続するような心配気質こそが子供を未来に閉ざしているのではないか。

子供に与えうる選択肢のひとつひとつを殊更重要なものだと捉え、その意味を広げすぎることはむしろ逆効果であるように見える。子供が期待するようにできなかったら親のほうがストレスを感じてしまい、言葉では伝えないまでも顔に出てしまいそれが子供へのストレスとなり結果的に虐待になったりと、期待と心配は紙一重で、あらゆる心配を排除しそれを子供に与え期待しても子供はデザインされたようにはならなかったりするのが普通だ。したがってヨッピーさんのようにある種のデザインや期待を含ませながらやらせてみる程度のスタンスのほうが結果的にはうまくいくように思う。

 

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あと、男社会では強さが必要かどうかという議論についてだけど、これも最近はよくわからなくなっている。すこし前であればホモソーシャルは厳として存在しているし、いじめだって決してなくなりはしないだろうから、子供にとって強さは重要な要素であることは間違いないと考えていた。しかしなにか「案外そうでもないのではないか」と最近は思えてきた。

 

子供社会の特徴のひとつとして多数派的にふるまえるかどうかというのがある。なにか特殊な事情がある子はいじめに遭う確率が高かったりするし、昔であればいわゆる「陰キャ男子」がいじめに遭う確率が高かったけれど、それは多数派とされる子供の多くがヤンキー気質であることが多かったせいではないだろうかという疑問がある。

最近の子供達は良くも悪くも物分かりが良い子が多く、いじめが社会問題化したこともあって以前と比べれば子供社会の過酷さは確実に減ってきている感がある。そこでは当然ながら暴力的な強さを必要とされる場面が以前よりも少なくなっている。むしろ暴力で解決するような子供のほうが特殊となり、いじめ対策が強化された学校の中で社会的に制裁を与えられるばかりでなく逆にいじめの対象になることだってあるだろう。

もちろん一概に言えることでもなく学校によって千差万別ではあると思うが、確かなのは昔のように一定の共通性があった環境とは違うことである。以前であれば公立学校はこういうものだという一定の法則性のようなものがあったが、そうしたステレオタイプの見方は通用しなくなっているように感じる。暴力性が必要となる環境もあれば、逆に暴力性が枷になる学校だってある。多様になった環境においては子供にとっての「聖杯(これをやれば大丈夫というもの)」はなくなってきている。

空手もありだし、サッカーもありだし、他のいろいろな習い事もおおむねポジティブなものだとは思うが、それがどう作用するかに関しては以前よりもよくわからなくなっているというのが子供達の実情ではないかと思う。