メロンダウト

メロンについて考えるよ

ラーメン評論家は表層に過ぎない。ラーメン評論家対ラーメン屋店主などというどうでもいい個人間の問題を「価値判断的に判断」する形式的な機構そのものが問題なのである

ラーメンが獣臭いわけであるが・・・
 
久しぶりにこういう文章読んだな。お酒飲んで記憶にない状態で相手に不快な思いをさせたのであればまず謝ったほうが良いと思うのだが、しかしまあそんなことは自分には関係ないので放っておこう。
 
かなりティピカルな騒動だというのが率直な感想だった。男性的な企業社会において女性が活躍するのは難しいと長らく言われてきた日本社会であるけれども、それもすこしずつ改善し、最近はこういうホモソーシャル文章を見ることもなくなりつつあった。しかし残っているところには残っている。昭和の残滓はいまだにあるところにはあるんだなと。
ラーメン業界は言うまでもなくつい最近まで店主も客も従業員も男性が中心だった。その評論をするライターも男性に向けて記事を書いてきたのだろう。それは容易に想像できることだ。上記記事は明らかに男性に向けて書かれている。しかしすべてが同じ地平に晒されるSNSではもうこういう「ガラパゴス芸」は終わりつつある。SNSの空気を一切無視して書かれた文章は「異物」として処理される。ガラパゴスの終焉とでも呼ぶべきだけど、それにしても上記記事はなんとも「自由」な文章ではある。
 
自分もSNS社会に生きている一人なので上記記事を読んだ時にすこしアテられてしまったものの、同時にこういう文章は(内容の是非云々は置いておくとしても)「書けなくなったな」とも思う。
「女性は守るもの」という記述は今の世相に敏感な人であれば書いている途中にこれはやばいと気づくものであるが、そういう一切を無視して書いているのはすこしうらやましく思ったりする。自分であれば増田(匿名ダイアリー)にならなんとか書ける文章なのだがそれをブログに書くのは恐れ入る。それも騒動の当事者が書いているのだからすごい神経をしているなと。
それはそうと今回の騒動を「女性の社会進出を阻む昭和ホモソーシャルの男性」という構図で見ている人が多いと思うけれど、それはすごく典型的で危ないと思う。
そういう誰の立場に立つかみたいな当事者論が行き過ぎた結果、当事者ばかりになったのがSNSの問題でもあるからだ。
前々から書いていることだけれどSNSの炎上に関してみんなどの立場から意見しているのかよくわからないところがある。政治や社会といった抽象的なものであればともかく具体的な個人間の事件は公共性がない限りすべて放っておけば良いと思うが、しかしもう「他人に言及すること」が自然な行為になったSNSでは世論を代弁するかのごとくソーシャルジャスティスが発動することになる。
 
そのソーシャルジャスティスというフォーマットに合致したのが今回の騒動なのだろう。上述した日本社会における男女の関係だけでなく、ラーメン屋の店主と評論家の関係は生産者と広告の関係に似ている。広告が嫌いなネット民は多い。ラーメン評論家はブルシットジョブとして叩きやすい職業なのだ。現に批評や評論といったものは廃れつつある。そうした世相も今回の炎上を加速させる一因となっている。
昭和の男性かつブルシットジョブ、そして上記記事のかっこつきだけど「無神経」な文章。それらが悪魔合体した結果としてラーメン店における個人間のイザコザがツイッターのトレンドに入り、はてなブックマークでは1500以上ブクマされ、テレビにも取り上げられる事態となった。
 
しかし僕はこういう文章が「書けなくなる」のもどうかと思うのだ。上記記事は確かに炎上の当事者としては不誠実に受け止められても仕方がないものの、内容ではなく文章のフォーマットそのものが燃えているように見えてしまう。もっと言えば人格が燃えているのではと危惧している。実際にはてブにつけられたコメントの大半が文体批判である。
フォーマルであるべき瞬間にはフォーマルに書くことも文章を生業にしている人に求められる能力であるものの、しかしハンツ遠藤氏が私達に謝らなければならない道理はない。ゆえにブログでフォーマルに書く必要もないし、あるいはこちらがフォーマルに読むべきでもない。当事者である梅澤さんにたいしてはフォーマルに謝罪したほうが良いと思うが、私達には関係ない話ではある。彼は彼の読者に向けて記事を書けば良いし、その大半が男性であれば上記記事も芸として成立してきたのであろう。それを「外の言葉で」批判することは簡単であるが、しかし内外の境界がなくなったことがまさに現代なのだ。
 
騒動そのものについてはそれ以上書くことがないけれど、僕が興味あるのは関係ない話までも関係することによってすべてが公的なものへと変化していくSNSの構造そのものにある。本来私達に関係ない話をすべて「当事者」として判断することですべてがフォーマルなものへと変化していった。他人事がなくなり、すべてを当事者目線で判断するため、過度に正義が横行するし、客観的に判断することが難しくなっていく。そうしたSNSの空気にあわせてなにかを書く時にはフォーマルな文体が求められるようになったし、逆説的にフォーマルでない文章が異物に見えるようになった。
相手の立場になり当事者として判断するのは美徳とされているが、みなが当事者として判断するようになると大変な過謬が生じる。過ぎたるはなお及ばざるが如しであるが、みなそれを忘れていやしないだろうか。SNSにおいて当事者感情ほど厄介なものはない。みなが当事者になってしまうと収拾がつかなくなる。「開かれ過ぎた当事者」の戦場がSNSだったりする。
「当事者として判断可能な事案」であればあるほど当事者感情を呼び起こすため、よく燃える。逆に言えばわけのわからないことはどれほど重要であっても燃えない。政治や経済も政策は燃えず、言葉だけが燃える。
 
男女、昭和の残滓、おじさん構文、ブルシットジョブといった典型的なものであればあるほど過去の形式に沿って感情を発露すれば良い、というフォーマットに乗っかりやすい。そうした形式を敷衍していくことで空気をつくり、その空気によって異物を排除し、すべてをフォーマルなものへと変えていくのがSNSの問題でもあるのだ。そして、そのフォーマットを利用し、「当事者である第三者」に正義を委譲する方法論が支配しているのがSNSである。
 
個人間のイザコザよりも、こんなどうでもいい話がこれだけ燃えていることに目を向けたほうが良いような気がしている。文章はかくあるべし、SNSはこう利用するべし、男女に言及する時はかくあるべし云々かんぬんといった形式を無限に拡張していくことで画一的になり、画一性により僕達は異物にたいしてより敏感に反応するようになる。
そうした空気の中にあってすこしの異物も許せないほどの神経症が、SNSにおいて加速してきた。現にその空気に順応した僕自身、上記記事のような文章にアテられてしまった。そちらのほうが重要な問題だと思っている。
 
良くも悪くも、加速する時代にあって取り残された異物は奇異に見えてしまう。しかしそれらが奇異に見えるこちら側の視座を形成しているものは一体なんなのであろうか?という疑念が常にあるのだ。何かが奇異に見える時、原理的にそれはこちら側の視座に依存する。昭和であれば上記記事のような文章はむしろメインストリームであったのだろう。むしろ面白く書けているぐらいの評価だったのではないだろうか。真面目なことをネタとして消費しにかかる態度や男女のロールモデルはかつての本流だった。だからこそハンツ遠藤氏は評論家として長年活動してこられた。
しかしそれらが良しとされる時代は終わった。あるいは読者だけに読まれるという時代も終わった。すべてが発見され、すべてが還流していく時代にあってガラパゴスはもう条件的に存在しえない。それは良いことでもあるけれど、他方で「取り返しがつかない巨大な何か」を形成してしまっているのではないだろうか。
 
僕達はラーメン評論家やホモソーシャルを今の価値観により相対化することで批判できる。しかし、今僕達がSNSで必死に構築しているこの巨大な何かが形成された時、僕達を相対化してくれるものはあらわれるのだろうか。表層的な価値観の変遷という意味ではなく、この言論空間のフォーマットを相対化しなければ異物を排除する画一性は永遠に温存されたままになるだろう。そうした空気に慣れれば慣れるほどにアテられやすくなる。そのアテられやすさによってさらに神経症的な空間が形成されていく。
誰が排除される異物になるかはその時代の当事者によって判断されるのが正しいという構造、それ自体を問題視しなければ重大な禍根を残しかねない。価値判断に客観性は必要なくなり当事者の感情を慮ることが正しいとされてしまう。価値観それ自体が問題なのではなく、僕達は価値観を判断する機構そのものを強化し続けているのだ。今はまだこうした逆張り記事が書けるけれど、それもいつかホモソーシャルのような「禁句」に認定される可能性がある。そして将来的にはそうした趨勢に誰も逆らえなくなるのではないか、という危惧があるのだ。
ラーメン評論家は表層に過ぎない。ラーメン評論家対ラーメン屋店主などというどうでもいい個人間の問題を「価値判断的に判断」し、形式を強化し続ける機構そのものが問題なのである。