メロンダウト

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おじさん構文と現代的コミュニケーション作法

しばしばネットではおじさん構文が話題になる。おじさん構文とは主に若い女性にたいし妙齢の男性が絵文字満載で送る長文テキストとされている。
 
上記記事では送る側のおじさんが若い女性に嫌われたくないという繊細さから顔文字を多用し、逃げ口上をつくっているとの分析がなされていた。僕は男性なのでおじさん構文に出くわしたことはあまりないのだけれど、この手の「繊細さ」に関してはどこか他人事に見えないところがある。このブログの文章も「だろう」「かもしれない」「と思う」など逃げ口上満載のテキストだなと自分で読んでいて思うことがある。私もおじさんに片足突っ込んでいるのかもしれない。
 
それはともかくこの手の「レトリック」や「逃げ口上」を排除するコミュニケーションはけだし現代的なものである。そしてそれは果たして良いことなのだろうかと疑問を持つこともある。
おじさん構文だけを抽出して見れば確かに気持ち悪いものだと言えるのかもしれない。しかしより抽象化して考えた時、この手の文章表現(レトリックや長文)が忌避される傾向はおじさん構文以外の場面でも見て取ることができる。その点は考えるに値するテーマであるように思う。
 
たとえばLINEやDiscordでも簡素化されたコミュニケーションのほうがより現代的なものになっている。僕達がメッセージアプリでコミュニケーションを取るようになって以降、コミュニケーションは急速に簡略化されていき、余計な文章表現をとことん排除するような傾向にある。より実際の会話に近くなっているというか、いかに簡略化して相手に伝えることができるかという点で形容詞や形容動詞を排除するような傾向も感じている。さらには感嘆符も無用になり直截的なコミュニケーションがより現代的というか若者的なコミュニケーションのありかたではあるのだろう。個人的にもそうしたコミュニケーション作法の変遷は日々感じることでもある。昔は気軽にしていた電話も今では相手の時間を奪うことになるという理由からみな躊躇するようになっている。とにかくいかに相手の自由を奪わず簡素化して伝えることができるかに主眼が置かれている。
そうした若者もとい現代のコミュニケーション作法を改めて振り返ると、おじさん構文のような感嘆符満載の長文はより「奇異」に写ることになるのだろう。おそらくはそのギャップがおじさん構文をコンテンツたらしめている理由だ。しばしば若い人がおじさん構文のような奇異なメッセージを送ってくる人がいたとSNSにアップするのは、こちら側の視座がより簡素化されたコミュニケーションを嗜好するようになったことに端を発しているように見える。つまりコミュニケーションが簡素化され、余計なものを排除する傾向が強まると、逆説的におじさん構文の奇異さが浮き彫りになり、コンテンツとして成立せしめているのだろう。
そしてそのギャップはおそらく近年になって生まれたものだ。おじさん構文程度の顔文字を使う人はほんの10年前にはけっこういたし、若者のほうがむしろ顔文字満載のテキストを使用していた記憶がある。その点から今のおじさんは一世代前の若者に適応しているだけと見ることもできる。
 
ようするにおじさん構文を取り巻くあれこれは近代特有のなにかを孕んでいるように感じるのだが、そこについて考えられることはあまりない。単におじさん気持ち悪い、以上終了となってしまうのがこの手の話の常である。しかし上述したような「近現代のコミュニケーションのありかた、そしてそこから生まれるギャップ」という観点から見ると一考する価値がありそうである。
 
結論から言えば近代になりコミュニケーションどころか社会全体が加速したのだと、そのように振り返ることができる。
たとえば最近の若者は映画や動画を早送りして見る人が少なくない。もはや映画を見ているのではなく情報を見ているのだと分析する人もいる。すこし前にファスト映画のようなものが多く視聴されていたこともそれを裏付けている。Tiktokのようなスワイプしながら高速で動画視聴するのも現代的なものだと言える。また、ブログのような長文メディアよりもツイッターのような短文メディアが流行っていることもコミュニケーションが直截的かつ短文的になっていることの証左と言えそうである。
なんにしろおじさん構文を忌避する側、つまり「現代人」はコミュニケーションの様態どころかその生態として、レトリックや逃げ口上を多用するようなおじさん構文的コミュニケーションから退却しつつあるのだろう。
 
これだけコンテンツがあふれ返っている時代にはそうしたコミュニケーションに適応せざるを得ないのはわかる。その生態が無駄に時間を取らせるようなコンテンツ、つまりはおじさん構文のような余計なものが詰め込まれたものを回避する心性を生み出しているのだと思われるが、逆に何が現代人をこのようなコミュニケーションに駆り立てているのかを考えると、このような「消費生態」を生み出しているのはつまるところ資本主義であるように見える。
というのも一時間の動画を視聴するよりも五分の動画を十回見せる、あるいは三十秒のショート動画を百回見せるほうが広告へのアクセシビリティーが高まることになるからだ。ネット空間が人々の欲望にリーチする一義的な手段と化すと、広告を見せるようコンテンツのあり方も変わり、UIもそれに伴い変化することでメディア空間は高速でコンテンツを消費する(ファストコンシューミング)場へと変化していった。そしてそのような環境にあっては視聴者の側もそれに教育されていくことになっている。たぶんそれがおじさん構文の裏で今起きていることだ。
 
 
まわりくどく、余計なことはもう必要ないと現代人は言う。より短く、より簡潔に、より的確にをみなが求めている。
しかし当然ながらこのようなコミュニケーションの現場にあっては弊害も存在している。しばしばその問題について論述しているのが、私が個人的に好きな先崎彰容さんである。先崎さんはすこし前に日テレの深層NEWSに出演されていて、国葬の問題について聞かれた際に、この社会には「タメ」がないということを話されていた。タメとは、何か発言する時に黙考し言葉に重みを乗せるというようなことだと思われるが、番組内では国葬に反対する人も賛成する人も拙速的な判断(反射)で物事を捉えており、つまりタメがないのだと述べていた。
この指摘は今の社会のありようを端的に表している。タメ、レトリック、逃げ口上を排除することで瞬間的かつ直截的に発信することが、政治のみならず社会一般で支配的なものになっているのだろう。それは資本主義にとっては市場を加速させる点でポジティブなものである。しかしその加速性を別の側面から見ると、拙速でタメがない社会というように表現することができる。
 
たぶん僕達はみなが現代的な生態の中を生きている。その生態の中で展開される意見や主張は直截的なコミュニケーションで溢れかえっている。その中で僕達はなにか拙速に物事を捉えるようにうながされ、それを進化だと勘違いしている節さえある。おじさん構文的なものを気持ち悪いと思うことも今の私達のほうが進化した世代だという驕りゆえだったりするのだろう。
僕はけっこう懐疑的な人間なので、おじさん構文は気持ち悪いという「こちら側の感性」が、ゆえん何かおおきな機構の中で醸成されたものでしかないのでは?と疑問を持つことがある。しかしながらみなナチュラルにおじさん構文は気持ち悪いという判断をくだしてしまっているように見える。自らが感じたその気持ち悪さに疑問を持つことなく、タメを持たないまま「次の動画」へとスワイプしていく。そうした瞬間的な取捨選択の連続、つまりは加速する社会に適応しながら日々を営んでいるのが現代人なのだ。しかしておそらくそれは進化などではない。僕達はただ、これまでに類を見ないほど加速度的に、変化していっているだけなのである。