メロンダウト

メロンについて考えるよ

意志なき有権者と自由民主主義

高井康行弁護士が「統一教会を政治から排除しろ」という言説は危険だとして警鐘を鳴らしていた。

 

 
統一教会の信者も有権者の一人であり基本的人権を持っているのはその通りだと思う。
しかしここで問題になってくるのがカルト団体に洗脳された人々は有権者としての主体性を持たないことにある。それを示唆する報道がすこし前にあった。
事件が起きてほどなく、日本で統一教会批判が報道され始めると、統一教会の本部がある韓国で統一教会を批判する日本の報道にたいしデモが行われた。
合同結婚式で韓国に渡った在韓日本人女性も多数参加していたみたいであるが、報道された映像を見て驚いたことがある。それはデモをするためにプラカードを渡す一幕であった。彼女達はプラカードを渡される時にそこに何が書かれているのか一切確認せずに受け取っていたのだ。プラカードには「偏向報道反対」「宗教弾圧をやめろ」など統一教会へのバッシングをやめるよう呼びかける言葉が書かれていた。そしてデモ参加者はプラカードに何が書かれているかわからないよう裏返されたまま手渡され、疑問も持たず受け取っていた。
内容の是非はともかくとして何が書かれているのか確認せずデモに参加するその主体性の無さに驚いてしまった。
普通、というか意志のある人間であればまず内容を確認したくなるはずである。政治的な主張であればなおのこと自身が何を発信するのかについて注意深くなるものだけど、洗脳された信者は有権者としての主体性を持たないのか、一切内容を確認せずにデモに参加していた。そこに彼女たちの意志、つまり有権者としての自覚を確認することはできなかった。
 
ではこうした意志なき人々による民主主義が機能するかと言えばかなり難しいと言わざるを得ないだろう。個々人がそれぞれ有権者として屹立して物事を捉えなければ政治に参加する権利を持っていたとしても無用の長物となってしまうためだ。有権者としての権利はあっても民主主義を支える市民としての自覚は彼女達にはもはやない。教会の言うがままに投票しデモ活動を行う。
そうした現実の状況に即して考えると高井さんが言うところの「有権者」という言葉はあまり意味のない言葉であると思う。彼女達を有権者として認めようが認めまいが、彼女達はもうその権利(有権者としての意志)をすでに手放してしまっているからだ。
 
統一教会がフロント団体として勝共連合を組織し、「そういう団体」として活動し、その思想に信者が同意して政治活動をするのであればそれはまだしも理解できる。政治的な主張を通そうとする時に同じ志を持った人を集めるのは集会の自由の範疇ではあるだろう。しかしカルトに洗脳された信者はそうした意思決定のプロセスの外に飛び出してしまうことがそもそもの問題なのだ。
実際、統一教会においては商慣習から外れた形で高額の壺を売り歩いたり、合同結婚式で誰ともわからない人と結婚したり、信者の方々は自身の意志決定を統一教会の意向に委ねてしまっていると判断できる事例がある。多額の献金などもその一つであるだろう。
 
 
ようするにカルト宗教を民主主義というフェーズで捉えると間違った議論になる気がしてならない。そもそも民主主義を動かすには国民ひとりひとりに自由が担保されていなければならないからだ。暴力によって抑圧されたり有形無形の圧力によって自由に投票することができない状態では民主主義の前段階ですでにそのシステムは破綻していると言わざるを得ない。そしてその自由を毀損するのが洗脳であり、その洗脳を裏付けるのがプラカードの内容を確認せずデモに参加する統一教会信者の方々なのであろう。
つまり統一教会及びカルト宗教の問題は民主主義の問題ではなく、その前段階で確保すべき国民の自由の問題であるのだ。そこに何か大きな齟齬があるように感じている。
 
以上のような観点から、カルトに洗脳された信者にたいし「有権者」という言葉を使うのは非現実的なものに見えてしまう。もちろんカルトに洗脳されている人であっても有権者ではある。しかし彼女達が真に有権者たりえるには彼女達の自由意志を取り戻す必要がある。したがって統一教会のような洗脳活動をしている団体にたいしてはその洗脳を解除しろと民主主義者の立場から批判すべきであろう。
自由意志を取り戻し、そのうえで信者個々人が意志を持ち政治活動を行うのであれば、その時はじめて民主主義として適正なものだと言える。今のように自分自身が何を発言するのかを気にすることもない統一教会信者の姿勢は民主主義の前段階である自由という観点からすでに破綻している。そして当然ながら「意志なき有権者」を作り出している統一教会本部にたいしては、それこそ民主主義を守りたいのであれば、なおのこと批判していくべきであろう。