メロンダウト

メロンについて考えるよ

政教分離の問題ではなく政教明示の問題ではないだろうか

政教分離の話が出てきてるけれどたぶんうまくいかないと思うんですよね、ということを書きたくなった。

 

政治と宗教の関係で言えば代表的なのが公明党で、公明党創価学会が関係しているのは公然の事実である。幸福実現党幸福の科学と関係しているのも知られている。一方で自民党日本会議や神童政治連盟と関係していると言われていた。しかし統一教会との関係は事件が起きるまで明示されてはこなかった。近代政治史に明るい人から見れば統一教会自民党と関係しているのは自明だったのかもしれないが、一般的には事件が起きてから知った人が多い。

この「知らなかった」というのが今回、憶測が憶測を呼ぶような錯綜した議論になっている理由ではないかと思われる。知らなかったゆえに統一教会を糾弾する暴露的な興奮が巻き起こっているし、知らかなったゆえに統一教会を批判するのは陰謀論だという話になる。どちらにせよ知らなかったゆえにいろいろな方向に話が飛んでいっているように見える。

なんにせよ僕たちは知るべきではあるし、知る権利も持っているのでそれを行使するのが今なのであろう。

 

今回の騒動はつまるところ政党と宗教の関係が「周知されているかどうか」が最も重要なポイントではないかと思われる。でなければ僕たちは判断する材料を持たないまま投票することになり、それはフェアネスにもとると言えるからだ。そのため、カルトを規制することとは別に進めなければいけないものが政教明示の議論ではないかと考えられる。

 

というのも政教分離は事実上ほとんど機能しないことがわかったのが今回の事件だとも言えるからだ。現実的に政治と宗教を完全に切り離すのは難しい。統一教会のようにいつのまにか政治に食い込んでいることがある。であれば次善策が議論されるべきで、そこで考えられるのが政教明示だと考えることができる。

実際問題として政治と宗教は切っても切れるものではないし、何を信教の自由とし何をカルトとするかの判断も相当難しい。

創価学会も多額の献金を行っている人がいるけれどカルト集団とまでは言うことはできないし、統一教会に関しても幸せになる人がいないわけではない。信者の幸福度はバラバラに発散している。その中で幸福になる人と不幸になる人が当然出てくる。そのため「どうやってカルトを規制するか」は信教の自由と衝突することになるため、慎重にならざるを得ない。オウム真理教のようにテロを起こしたりすれば公安の監視対象とすることもできるけれど、そうでない場合、宗教とカルトは紙一重だと言える。ではテロを起こさないカルト的宗教を放置して良いのかと言えばそういうわけにもいかず、社会との折り合いの中で続けてもらうしかない。社会のルールの中で存続できず、前近代的な洗脳活動などをするのであれば政治的な手続きを経て法人格の取り消しや、場合によっては解体してもらうしかないだろう。

そのようにして国家権力が宗教団体と緊張関係を保っている状態であれば、相互抑止が働き、結果としてカルト団体への抑制が期待できる状態になる。ようするにカルト宗教にたいしては外交的な手立てを講じるのが良いのではないかというのがこの記事の論旨である。

 

このように考えると問題となってくるのは社会の側にたって宗教法人を監視する政治体制をいかに構築するかとなる。そのためには政治と宗教は分離しなければならないというのが政教分離の理念ではあるのだろう。しかしながら宗教団体も有権者であるため、現実的に政治と宗教を切り離すことは難しい。であるのならば次善策として考えられるのは、政治家がどの宗教団体とつながりがあるのかを開示したうえで選挙を行うべきということだ。今のように判断材料に乏しい状態で選挙をすることは公正さとは反している。それが今回問題視されることのひとつではあるだろう。

仮に自民党統一教会が癒着しているのであればそうすれば良いけれど同時にそれは国民に開示して選挙を行うべきである。それが公正な選挙というものだ。

 

以上のような政教明示のそれは選挙スタッフに関しても同じことが言える。公設秘書、私設秘書、ボランティアスタッフ問わず政治と宗教が分離、あるいは明示されなければならないのであれば、現実生活における信教の秘匿(プライバシー権)とは別に、政治にかかわる人間は自らの宗教を開示して職務にあたる必要があると言える。その意味で公明党創価学会の関係は国民にたいして公正であると言えるが、自民党統一教会の関係はそうではない。巷で言われているように「自民党の議員が統一教会の信者を選挙スタッフとして(それとはわからない形で)採用していた」のであれば国民にわかる形で開示しなければならないし、さもなければ選挙スタッフの信教を確認する必要が出てくるはずだ。

政治家のために無償で働いてくれるボランティアスタッフとは言い換えれば無償ゆえに雇用関係ではなくその出自を確認する必要がない人々であるわけだが、それが政教分離セキュリティーホールとなって政治にたいする宗教の力を強めてきたのも、報道を見る限りにおいては事実である。当然ながら誰であろうとボランティアに参加することを止められるべきではないし、選挙に出馬することも否定されるべきではない。他方で国民は可能な限り候補者及び政治家の実態を知る権利があるし、そのうえで投票を行うのが民主主義だとも言える。そのバランスを欠いた時、秘匿された情報により上辺の投票を国民が強いられることになる。それは回避すべき事態だろう。

 

実効的に言えば選挙という公益を考えなければならない時には、関係するスタッフにたいし属している宗教を明記させ、名前を伏せる形で国民に開示するなどの方策を考えるべきなのだろう。そのうえで自民党統一教会のスタッフを雇うのであればそうすれば良いし、その議員に国民や宗教団体が投票するのも自由である。しかしながら公明党がそうなっているように、宗教的立場を明確にすれば反対票を集めることにもなる。それが国民にたいするフェアネスになり、「民主主義を通じて宗教法人を監視する政治体制」を構築することにもなるはずだ。

 

今のように、公然の秘密だったり秘匿された関係のもとで選挙が行われることは憲法21条の知る権利に反しているし、公人のプライバシー権よりも上位にくる公共の福祉の考えにも反している。公益として明かすべき判断材料であれば信教の自由であろうと国民に開示してしかるべきであろう。政治家は私人ではなく公人であり、その宗教的立ち位置に公益性があるのであれば国民はそれを問題として捉え批判し、その議論のうえで選挙を行うことが、政教分離に代わる次善の策、政教明示ではないだろうかと思うのである。

 

 

※とはいえ宗教を明かすことで差別が誘発されるということが日本ではあるので、かなり難しい問題なのだとも思います