メロンダウト

メロンについて考えるよ

無神の人と箇条書きの善悪

こんにちは。コロナに罹り人生で最も喉が痛くなりました。声がほとんど出なくなりせきもひどかったのですがそれでも軽症だそうで。感染経路が不明でおそらく市中感染だそうです。みんなも気を付けてください(お前がきをつけろ)

 

熱に浮かされた頭でいろいろ見ていたのですが、人間の善悪判断ってどこまでを射程として捉えることができるのだろうか、なんてことを考えてしまう昨今です。

 

岸信夫防衛大臣セクト団体である統一教会に選挙活動の協力をしてもらっていたらしく、ほうぼうで火の手が上がっている。個人的にもけっこう問題だと思っていて、日本の防衛大臣が韓国発のセクト団体と関係しているのは悪い冗談のようにも思える。

山本元防衛副大臣統一教会韓鶴子総裁を"マザームーン"と呼び花束を渡していた。

 

 

国防のトップにいる人が海外にルーツを持つセクト団体と繋がっているという事実関係から判断すれば、国防を担う資質に欠けると言わざるを得ないと思うのだけれど、しかしこういうのもGHQの頃から変わらないと言えば変わらないのかもしれない。

ある種の自然主義というか、過度なリアリズムというか、自主的に判断することを避け現実の中に判断を埋め込んでいき、掘り返された時にはもう自分でも何を埋めたのかよくわからなくなっているみたいな話なのだろう。

統一教会が行っている合同結婚式は洗脳を通じた人身売買とも言えるもので、国防上も問題があり、北朝鮮拉致問題とその手法は違えど実質的には変わらないものだとも言える。精神を誘拐するか、身体を誘拐するかで目測上の被害は違うものの、洗脳はやはり問題ではあるだろう。あるいは霊感商法も、国民の財産を守る職責を負う政治家からすれば取り締まるべき行為ではあるはずで、それを行っている団体からも距離をとってしかるべきではある。

そうした団体と防衛大臣に付き合いがあるのは普通に考えれば大問題であるわけだが、その善悪判断がもう国全体としてよくわからなくなっているのだろう。炎上して退場させられるのは女性蔑視発言やゲーム実況者の暴言などどうでもいいものばかりで、善悪という基準はもうかなり陳腐化し、遊び道具にされている節すらある。どうでもいい発言は燃える一方で、セクト団体と関係している政治家が所属している自民党の支持率はほとんど落ちてはいない。実効的にはゲーム中に暴言を吐くほうが「重い処罰」が与えられている。

 

なにも防衛大臣に限った話ではない。こうした善悪判断の不能さは僕たちのほとんど全員にあてはまることでもある。たとえば宮台真司氏がよく三島由紀夫を引いて

「日本人は一夜にして天皇主義者から民主主義者になり、一夜にしてフェミニストLGBT主義者、SDGs主義者になれる」と言っている。

この指摘はかなり的を射ているように感じるけれど、この言葉のもうひとつの意味は僕たちは善悪判断ができないということなのだろう。変わり身の早さが重視されるようになると善悪が入れ替われば変身すれば良いとなり「今この瞬間の善悪への緊張」は失われる。

現在という時間軸ではみな社会の空気に従って善悪を判断しているだけで、蓋を開けてみれば国防をあずかる防衛大臣が海外のセクト団体と関係していた。それが現実なのであろう。

 

ある種の「列挙された善悪」にたいしては僕たちは敏感に反応し、それを批判することができる。たとえば女性差別的な発言、LGBTにたいするアウティング、ハラスメント、あおり運転など社会のホワイトボードに箇条書きされたものであれば極めて迅速にその善悪を判断してみせたりする。今回の件から比べればどうでも良い発言だった森元首相の女性蔑視発言も即座に炎上し退場させられる事態となっていた。しかし今回の岸防衛大臣の発言をもってしても辞職することにはならないだろう。自民党の議員が統一教会と関係していたとしても「事前に箇条書きされていた善悪判断」に従う限り、ただちに問題だと判断しえないからである。

 

しかしながら当然、このようなステレオタイプの善悪判断に頼り切ってしまうと箇条書きされていない悪にたいしてはいとも簡単にその侵入を許してしまう。

むしろそれが箇条書きされていないぶん、安心して関係してしまうことすらある。自民党をはじめ多くの議員が統一教会の信者をボランティアスタッフとして使っていたり統一教会の集会に祝電を送っていたという報道を見ても、事前に統一教会を悪だと判断していた議員はほとんどいなかったようである。ようするに多くの自民党議員は統一教会が悪かどうかに興味はなく、同僚議員がみな関係している団体なので関係していたという、それだけの話に見える。そこに善悪はなく票という現実だけが転がっていたのだろう。

事前に箇条書きされていない善悪に関してはもはや興味すら持たない。ただ現実だけがある。それが戦後日本人の考え方のひとつの花形であり、敗北主義とか自然主義とか資本主義への適応とか、あるいはポストモダンや、最も平たく言えば「自由」などいろいろな言葉で説明されているけれど、その列挙された言葉に依存する形で言語化されていない善悪判断をないがしろにしてきてしまったのではないだろうか。

 

それが露骨にあらわれたのが今回の一連の自民党議員による発言だと言える。彼らは発している言葉は違えど、一様に「何が問題かわからない」と言っているのだ。

その背景には、宮台さんが指摘しているような日本人の変身性があり、そしてその変身に頼り切ったゆえに、善悪を求められた時には即座に変身すれば良いとなる。そのような変身を繰り返しているともはやどこにも軸足がなくなり、善悪を判断する必要すらなくなる。そして現実の人間関係だけが前景化し、ボランティアで手伝ってくれるのであれば「箇条書きされていない限りにおいて」万人を受け入れ、統一教会と政治家が関係するという顛末になっているのではないだろうか。

 

 

こちらの動画でも

工藤彰三氏が「反社会的勢力ではないのでお付き合いしていくつもり」と言っているけれど同じように善悪判断をする気がそもそもないのだろう。『反社会的勢力ではない』の部分を取り出し、この言葉の抽象度を上げて考えてみるに彼の言っていることは「箇条書きされていない限り悪ではない」と言っているに過ぎない。

カルトでもセクトでもなんでもかまわないけれど、人の精神を全面的に恭順(洗脳)させるのは場合によっては反社会的勢力による暴力よりも危険な行為であり、国民の自由意志を棄損させるものだとも言える。かつてX-JapanのToshiさんがそうだったように、マインドコントロールの犠牲になっている人は統一教会に限らずとも大勢いる。そしてそのような社会悪にたいし政治家が善悪の判断を放棄して良いかといえば、そうは思わない。

失言程度であればキャンセルや善悪判断を保留するべきだと個人的にも思っているが、今回の件はそうした場合とは事情が違う。悪と判断できるものを悪と判断しないのは、端的に言って怠慢なのである。

 

 

箇条書きという方法論は、何を箇条書きの項目として明記するかにかかわらず、個人や集団の善悪判断をその箇条書きに依存させ、判断する能力を損なってしまうものなのだろう。普通に考えて洗脳は悪であるとか、普通に考えて壺が100万円は高すぎるとか、そういう普通を解体し多様性のもとすべてを列挙しようとしたことで、項目ごとに細分化され「普遍的に考える」という術を失ってしまった。そして善悪すらも箇条書きの餌食にされ普通に考えて悪いことという話も、もはや意味をなさないのかもしれない。

有神論を語り教義を守るべきと説く宗教とは反対に、無神論は事前に列挙していないのであればそれは悪ではないという考えに至ることでなにもあがみ奉らず善悪すら判断せずに現実だけを見据えるようになる。それが無神論の究極的な帰結に見える。そしてその無ー判断によって被害に遭っている人は少なくない。

概念的に言えばつまるところ今回の事件は自民党という無神の人が統一教会と関係していたことで無敵の人が犯行に至ったとも言えてしまう。

この意味で「無神の人対無敵の人」という構図と、そう捉えることもできそうである。