メロンダウト

メロンについて考えるよ

僕達は非婚化しているのではなく情報婚化しているのではないか

なにか読んでて市場動向調査のような感想を持った。
内容としてはいわゆるMGTOW(Men Going their own way)に近いと思う。
合理的見地から見ると男性にとっての結婚は経済力のない女性に共依存を強いられるものだという。具体的な話としては頷くところが多かったのだけれど、この手のデータで論破的な語りには違和感を覚えてしまう。それを書いていきたいと思うのだが、現実的には結婚に限らずこの既存の枠組みからの退却はいくとこまでいくのだろうとも思ってもいる。
MEGTOWと似たようなものでアメリカでは最近、グレート・レジグネーションというものが起きているらしい。グレート・レジグネーションとは何か意味ありげな言葉だけどそんなにたいした意味はない。働かないという単にそれだけのことである。
アメリカは賃金格差が日本の比ではなく、働いても物価高に賃金の上昇率が追い付いていない。一方、巨大TEC企業の給与はバブル並みの水準となっている。この格差をひっくり返そうとしても、例えばメリトクラシーその他の議論に触れればいかに馬鹿馬鹿しいことかと思う人が少なくないだろう。あるいはマルクスを読めば、Uberのようなギグワークで働くことは事実上奴隷のようなものだと悟る人がいても不思議ではない。そのような状況であれば先進国の特性を生かし社会保障にフリーライドするほうが合理的だという結論に達する。それがグレート・レジグネーションに至る社会的背景だと考えられる。すこし前に話題になった中国の寝そべり族にも似たような背景がある。
 
このような「他国の仕事の話」は「日本の結婚の話」とは直接には関係がないように思われる。しかしながらその成立過程に注目してみると、グレート・レジグネーションとMGTOWは非常によく似ていることがわかる。それが何かと言えば、検索性にある。
前提として、ここ10年余りの技術的発展により、僕達はすべてを検索できるようになった。インターネットがインフラと化した世界では仕事、恋愛、食事、医療その他ありとあらゆる場面で検索を利用し事前の情報により判断している、もといせざるを得なくなっている。
そしてそれは何も日常の場面だけに限らない。価値観や思想も検索によって構築し始めたのが昨今のトレンドとなっている。このところ話題になっていたメリトクラシーや反出生主義もその系列の話で、いわゆる「ネタバレ」の一種なのだろう。
グレートレジグネーションも例に漏れない。働くことが馬鹿馬鹿しいと考える人が出てくるようになったのは、労働がなんたるかを検索によってネタバレされるようになったのがひとつ大きい要因だと推測できる。
同様に女性の上方婚志向をデータで検索、暴露し結婚は墓場だと言うMEGTOWも出てきた。MGTOWは事前に検索したデータによって女性を定義づける。それはちょうどクックパッドを見すぎてレシピの外に出ることができなくなることに似ている。レシピ通りに作ったほうが美味しい料理ができるし万人受けする味になる。しかしレシピは個人の好みを想定しない。あくまでレシピの美味しさは標準化された基準にもとづくものに過ぎない。結婚もとい恋愛もレシピに似ているところがある。にもかかわらずMGTOWは女性は~~という標準化された基準をもとに料理(結婚)をつくろうとしている。つまりそこにレシピはあっても「舌」がないのである。もっと大きく言えば人間がいないとも言える。
このような状況と対比して「検索以前」を振り返るに、結婚は墓場だというのは既婚者がタメ息混じりに言う台詞だった。しかし今はそうではない。独身者がその正当性(レシピの正しさ)を主張するため、事前に、料理を食べる前に持ち出す言葉となっている。その違いはつまり行為と言葉の順序、その前後の逆転なのであろう。そしてその逆転現象を生んでいるのが検索ではないかと愚考しているのだ。
 
もちろん一概に検索といっても検索すること自体に問題はないと書いておかなければならないはずだ。
会社・飲食店・書籍・歯医者の評判を調べるぐらいの日常的なことであれば問題はないはずだ。料理をする時にレシピを検索することだって決して悪いことではない。日常生活では積極的に検索を活用すべきだと思う。また、検索に伴うインターネットの評価システムがブラック企業を社会から排除し働き方が改善されるのもポジティブな効果であることは間違いない。しかしながら問題はそうした日常を営むうちに僕達が検索という行為自体を相対視できなくなってしまったことだ。
というのも僕達はいまや日常のあらゆる場面で無意識に検索することを繰り返しており、検索するほうが賢い判断だと、環境的に刷り込まれながら生活している。
食事に行く際、前情報なく飛び込んだお店がハズレだったり
就活していてハロワに紹介された会社がハズレだったり
結婚してタメ息を吐く前にマッチングアプリでお互いの適正を確認しあったり
あらゆる場面で事前に検索することにもはや慣れすぎていて、それ自体、つまり検索するという行為になんの疑問も持ち得なくなってしまっているのがそもそもの問題であるように思うのだ。検索するという行為になんらの「色」はなく、出てくる情報の善悪を判断するのがリテラシーだと皆が考えている。しかしながら検索とはどこの誰が書いたかわからない言葉に突っ込んでいく点では暴走行為に近いものがあり、原理的には相当危険なものだとも言えてしまう。セキュリティーソフトを入れ、ウィルスチェッカーに引っかからないサイトに記載されている情報は「見て良いもの」だと無邪気に思っている節がある。一昔前みたいにブラクラやフィッシングサイトに警戒する人も随分少なくなっているのではないだろうか。それはインターネットが整備されたという点では確かにポジティブなことかもしれない。しかし危ないサイトを排除していくとネット環境は整備される一方、心的なセキュリティー脆弱性は逆に高まることになる。僕達はいまやかなり無邪気にSNSを巡回しブックマークしたサイトを閲覧しているが、その無邪気さゆえ無警戒に情報に触れてしまうようになっている。おそらくはそれが今、様々な問題に通底していることである。そしてその弊害は無視できるものではない。端的に言えばそれがどれだけ正確な情報・言葉であろうとも、それを見ることですでに罠に落ちているということが往々にしてあるように思うのだ。より正確な情報へ、より適切な考え方へ、より耳さわりの良いタイムラインへと突っ込んでいって事故を起こすのがつまり反出生主義だったりMGTOWだったりグレートレジグネーションだったりはしないだろうか。一言で言えば人は嘘よりも真実のほうに騙されやすいというそれだけのことなのだが僕達はそれをいとも簡単に忘れてしまう。
この意味で昨今話題になる問題のほとんどは検索という行為が孕む宿痾であるかのようにすら見えてしまうのである。
以上のような観点からそもそも検索という行為を根本から考え直す必要が出てきているのではないか。
 
検索によって殺されるものの代表が価値観である。
たとえばMGTOWは結婚に反対の立場を取っており、確かにその主張には一定の合理性がある。しかしながら仮に少なくない女性が上方婚志向を持っていたり共依存的な支配関係を築くことが事実であったとしても、女性への失望をを経験的に知るのと検索によって知るのではまったく違う価値観を形成することになる。事実主義的な判断を好む人はどうあれ女性を嫌いになるのであれば同じことだと考えるのかもしれないが、個人的にはそうは思わない。大事なのは、女性を差別している云々というどうでもいい話ではなく、本人がどのようにそれ(女性嫌悪)を捉え、あるいは捉え返す余地を残せるままでいられるかであるからだ。
経験によって女性嫌悪になったのであればたとえミソジニーになろうともその言葉には失恋の重みが乗ったり、あるいは絶望を友にするような『文学』を獲得することができるかもしれない。しかし検索によって「女性は上方婚志向を持つ経済的動物で恋愛感情は持たない」と判断した時、その言葉は浅薄なものになってしまう。
ミソジニーの道程を考える時、検索で得られたデータによってミソジニーになった場合には、それをデータとして破棄する必要がある。MGTOWのように女性は○○な生き物だというデータによって女性嫌悪になった時には、それを捨てるしかない。そこには何も残らない。総体としての女性が経済的動物だと判断しても現実に行動する時には意味がないからだ。唯一あり得るのは女性が経済的動物だという前提にたったうえで自身がお金を稼ぐであるが、それでは女性嫌悪を捉え返すことにはならない。ようするに「検索によって得られたミソジニー」はミソジニー自体を破棄する以外にミソジニーを乗り越える術がないのである。
しかしながら経験によって女性嫌悪になったのであれば、原因となった女性をn=1と捉えることで、その他の女性を捉え返すことができる。統計によって女性を定義するMGTOWとは違い、失恋した男性は一人の女性がそうだったという枠に自身のミソジニーを安置させることができ、総体としての女性への希望は失われないですむ。つまり内なる絶望と外への希望を同居させることによりミソジニーを抱えたまま次の恋愛をすることができる。ゆえにミソジニーという価値観を捨てなくてもかまわないでいられるため、経験と価値観に連続性を持たせることができる点でMGTOWのそれとは違い、「彼のミソジニー」は意味があるものだと言えるだろう。
 
僕達の考え方(MEGTOW、グレートレジグネーション、メリトクラシー、反出生主義等)を形成している外部要因を改めて捉え返すと、そこには一見すると真実だが「価値形成プロセスには意味のない真実」がたくさん転がっていることがわかる。データを見て女性を嫌いになるなどそんな無意味で愚かしいことはないと、よく振り返って考えればわかることではある。しかし僕達は「検索社会」を生きているゆえ、データや統計に過大な権威を与えがちである。ゆえんデータは間違わないという先入観は、インターネットがインフラ化した世界にあっては強烈な魔力を放って僕達を魅了している。もちろんデータや統計は大事である。しかしデータはあくまでもひとつの要素であって、矛盾したものを複層的に重ねるべき価値観を形成するプロセスには不十分なものではないだろうか。
 
最後に
言葉遊びのようなまとめで申し訳ないのだが、冒頭記事を振り返るとMGTOWは情報と結婚している情報婚だと言えそうである。
女性よりも情報のほうを信じ女性を嫌いになるその事前性は、検索によってin-formedされたものであり、そこには奇妙な無邪気さが見え隠れする。データによって判断されたものだから間違いないのだという無邪気さ、検索に突っ込んでいく無邪気さなど、考えようによっては一時の感情に飲み込まれる「駆け落ち」にすら見える。
ネタバレと駆け落ちする。男女の問題でも仕事の問題でも至るところで見られる現象だと思う。
そしてそれを生み出しているのが検索という行為への無警戒さなのであろう。無邪気に大人を信じる未成年は騙されやすいようなもので、年齢的に言えば僕達はまだ小学生のようにインターネットに接しているぐらいには考えたほうが良いのかもしれない。大人がどれだけ正しいことを言っていてもついていっては駄目な時があるように、検索で得られた情報がどれだけ正しくてもそこについていくかは別の問題であるのだ。しかしその情報に誘拐され、あまつさえ情報と結婚するような人が少なくない。そしてその誘拐された相手を愛してしまうこと(ストックホルム症候群)もままあることである。
 僕達はおそらく非婚化しているのではない。女性が上方婚化しているように、少なくない人々が情報婚化しているのではないか。