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アンチマンと清潔主義~掃除されるミソジニーについて~

アンチマンを読んでミソジニーについて書きたくなった
 
 
とりあえずこの辺境ブログにやってきた読者諸氏にはぜひアンチマンを読んでいただきたい。
 
 
読んだ瞬間、なぜかシロクマ先生の「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて」を思い出した。シロクマ先生の著書は清潔主義とそれを支える道徳などについて書かれているもので、日本社会に薄っすらと張られている「膜」のようなものを言語化した本だと個人的には思っている。いわゆる清潔主義や健康主義といったものだ。
実際、日本の衛生観念、特に東京などの都市部におけるそれは世界でも屈指のものだ。意識レベルでも清潔主義は国民の間に広く根付いており、昨年のワールドカップの時にもスタジアムのゴミを拾う日本人観客が話題になっていたりと日本人の清潔に関する意識は世界一と言って良いものだろう。諸外国でここまで清潔な都市・国は他になく、衛生面から言うと日本社会はかなり徹底している。ほとんど神経質なほどだ。(但し足立区を除く)
清潔な環境が好ましいものであることは誰もが賛同するところであるが、「環境的汚さ」を掃除するように「人間的汚さ」も掃除していってしまったのではないかと、アンチマンを読んでいたらそんなことを書きたくなった。
 
アンチマンの主人公である溝口は端的に言って汚い。妄想を膨らませ同僚に欲情したりSNSのレスバに勤しむ様はとてもではないが綺麗なものとは言い難い。けれど溝口は自身の汚さを妄想に留め日々を生きている。しかしラストのシーンで現実の行動にうつしてしまいその瞬間(ラストの転んだ女性に覆いかぶさった瞬間)に刺されてしまう。溝口が父の介護をしながら会社員として働いている様は同情するに足る境遇であり、その孤独から発せられる歪んだ自意識は目を背けたくなるほどのリアリティーがある。けれど溝口はその歪みを最後まで妄想に留める。社内の会議にてミソジニーが漏れ出てくるシーンがあるものの、ミソジニーという自意識を持ちながら社会適応を捨てることは決してない。しかしながら最後にその妄想を現実にしてしまい刺される。そのラストシーンは表向きは抑えきれない欲情であり、結果的には人助けであるが、日本社会の清潔主義を念頭に置いて読むと「自意識を現実にした瞬間に掃除されてしまう」という風にも読めると思うのだ。
 
日本は自由の国で、犯罪を企図するでもない限り内心の自由は担保されている。どれだけ汚い妄想であろうともそれを想像するのは自由である。しかしそれを現実にした瞬間に掃除される。アンチマンの描写はその日本社会の清潔主義を端的に表している。
 
溝口のような人間的汚さは現実には許容されない。さながら思想そのものがわいせつ物のような扱いとなり、人間的汚さは時としてゴミとして扱われる。街中に落ちているタバコの吸い殻や空き缶と同じようなレベルで「あってはならないもの」として扱われ、公共性の名のもと綺麗にされる。その清掃方法はベタに言えばSNSに女性蔑視・男性蔑視などを書きこむと批判されたりすることであるが、ネットに歪んだ感情を投稿したりすると批判に晒され一般的言説・公共性によって洗い流されることになるのが常である。あるいは、そうでなくともメンタルケアの対象となることは疑いようがないだろう。また、近頃ではコンプライアンスやハラスメント対策などが強化されていることもあり、社会においても人間的汚さが存在することは難しくなっている。ネット上ではいわずもがな差別や歪みに自意識などの汚さは燃やされ灰となるばかりだ。ゴミはゴミ箱へ。それは何も本当のゴミにだけ適用されるものではない。「ミソジニーというゴミのような観念」もまたゴミ箱へ放り込まれ街を綺麗に保つことが衛生観念が極まった日本社会の、ありとあらゆるフェーズにおける帰結であるのだ。
そのような「洗浄構造」を最もセンセーショナルに表したのが「妄想を現実にした瞬間に刺される」ということなのだろう。妄想を現実にうつす間もなく刺され、その妄想すら無かったことになる。勇気を出し行動にうつした悪行ですら現実に実ることはなく即座に掃除される。果てにはその悪行は善行へと塗り替えられてしまう。それが最後の最後で溝口が涙していた理由であったという読みすらできると思う。とどのつまり誰も溝口のことを本当には理解しないまま物語は終わる。溝口は善人になどなりたくはなかったはずだ。ただ自意識の発露すら許されないことにたいして涙していたのだと、穿った見方かもしれないがそのような読み方もできる作品だと思う。
 
 
いわゆるあってはならない感情、口にできない劣情というのは厳として存在する。それは女性よりも男性のほうが強いものだろう。思春期に妄想の中で同級生の裸体を想像したりなどは健康な男子であれば誰もが通る道であり、大人になっても程度はあれ劣情が消えてなくなるわけではない。しかしそのような劣情を抱きつつも社会に適応し生きていかなければならない。ただ、社会は劣情を受容するようにはできていない。法的な制限だけでなく観念的にもそれは強くなっている。それはここ数年で強くなっている。すこし前であれば酒宴の場で人間的歪み・恥部・武勇伝などを自虐を交えながら語ることができていたように思う。しかしながら今はそれらを語ったりすることは相当に仲が知れた間柄でないと危ないものとなり、さらにはそのような反公共的なエピソードをインターネットに投稿すれば即座に掃除されることになる。オフレコでLGBTQにたいする差別発言をした首相秘書官が更迭されたことは記憶に新しいところだろう。つまるところ彼も掃除されたのだ。ブログ界隈でも人間的歪みを書きなぐったブログが以前はあったりしたけれどここ数年あまり見なくなった。それはネットが一般化し、清潔主義がインターネットを掃除し始めたからと見ることもできるだろう。
 
現実は90年代から始まったと言われる恋愛離れや性的退却といったものがまずあり、迷惑防止条例などによって騒音も規制され、そのような社会の趨勢と相まって街は整地され掃除され綺麗に保たれるようになっていった。さらに近年では恋愛以前の性的アプロ―チが無様で汚いものだとハラスメントとして掃除されるようになっている。
インターネットはブログ全盛期などにしばしば見られた個人の劣情を書きなぐるルサンチマン合戦は鳴りを潜めるようになり、整地され論理だてられた文章のほうが読まれるようになっていき、どれだけメタを取れるか戦争のようなものが残り、個人の劣情はもはや灰となるだけである。
そしてフィクションにおいても、ハリウッドでポリコレが浸透してきたり、温泉ムスメや宇崎ちゃんのような過剰な表現にたいしても批判が入り整地されるようになっていった。そしていまや「ここは異世界です」というテイを取らなければ表現できる範囲が限定されるという事態なのだろう。
 
アンチマンはそれらの社会背景や、その現実に紐づけられたフィクションが置かれている立場を表しているように見えるのだ。つまりフィクションですらレイプできないということ。それがアンチマンの別の顔ではないかと思ってしまった。
 
 
 
関係するかはわからないがこちらのnoteが興味深かった。何もしないことは時として正義であるという考察だ。
 
一市民としての感覚からすれば同意したくなる。女性が襲われない社会のほうが良いに決まっている。しかし抽象的に考えた時、何もしないことが正義であれば何かをすることは悪なのであろうかと、そのような疑問が消えない。何もしないことが正しいというのは逆側にある「何かをすることが悪である」というその悪の許容範囲が狭まっていることに起因しているのではないか。つまり悪の許容範囲が狭まれば狭まるほど何もしないことへ正しさが付与・移譲されていくことになる。そのような視点も忘れてはならないように思う。
溝口のようにミソジニーを発露しないことは一見すると正しい態度であるが、長期的に見た時に正しいかと言えばそんなことはない。むしろミソジニーを抱え表に出さないことによって暴発するリスクが上昇するため、女性に襲い掛かるぐらいまで歪むのであればそれよりも前にもっとソフトな形で表に出すべきである。つまり「(何もしないために)小さな悪で済むうちに何かをすることが正しい」というふうにも言えるのだ。溝口は耐えに耐え妄想に留まり続け何もしなかった結果、(未遂だが)最終的にあのようなラストになったという視点も忘れるべきではない。困難を抱えながら何もしない殊勝な人間が正しく尊敬に値するというのは外部、つまりは社会の側から見た意見でしかないのではないか。問題とすべきはその人の内面の行く末であり、社会にとってどうあるべきかというのはどこまで言っても第三者の評価でしかないし、言ってしまえば大人しい個人を奨励する価値観は清潔主義を内面化した僕らの願望であり欺瞞でしかないのではないか。ようするに「どれだけその個人の内面で汚さが渦巻いていようとも現実には何もしてほしくない」というのが整地された街で暮らす僕達の理想的他者像であり、その他者像を溝口という「良くできた愚者」にたいし投射し、「溝口よ、よくそこまでの困難を抱えながら何もしなかった」といった具合に自らの溜飲を下げているだけではないのか。
 
何かをすること・しないこと。それらにたいし評価を下すのは「こちら側の論理」でしかなく、それはおよそ多様性と呼べるものではない。人はある種のパターナルな傾向を持ちながらも同時に想像の埒外で突拍子もないことをしでかすことがある。それを正しいとか悪いとかいうこと自体にたいしては相当に躊躇すべきであり、ましてや「ゴミがあるから綺麗にする」というようなことはしてはならないはずである。
つまるところ人が何かをすること、その背景への観点を持つべきであり、その何かがたとえ悪であり汚いものであってもそれを汲み取ることも必要なのではないかと思ってしまった。そうでなければラストシーンで病室に寝かされ管だらけになり黙って泣くことしかできない溝口のように、灰となった屍が散乱するばかりであるからだ。