メロンダウト

メロンについて考えるよ

シロクマ先生著「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて」を読み、世界について考える

id:p_shirokumaさんの「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて」

購入して読んでいます。半分ほど読んで思うところがあったので書いていきます。

はじめに誤字を見つけたので言及しておきます。

47ページなかほど「フェイスブックやインスタグラムに好もしい投稿を心がけてやまない」となってますが「好ましい」の誤字ではないかと思います。シロクマさんの目に留まるかわかりませんが。idコールってブログでは飛ぶんだっけかわからないので最新記事へリンクしておきます。

p-shirokuma.hatenadiary.com

シロクマさんのブログはかなり目を通してはいるのですがはじめて著書を読ませてもらいました。そしてやっぱりかなり近いことを考えているのではと思うようにななった。

喫煙の問題にしてもそうだし自由の逆流とも言える現象についてもそう。タイトルにもなっている健康に関してもそうだと思う。健康「的」と言ったほうが適切かと思いますがいわゆる全体主義的なものにたいする疑義という点では似たようなことを考えている。取り上げられている喫煙の問題に関してもこのブログではさんざん書いてきた。1章で取り上げられている境界知能の方および認定弱者についても最近の記事で量的差別という点で書いてきた。個人主義にたいする危機感や自由そのものにたいする違和感のようなものもこのブログの主題と言っていいかもしれない。もうさんざん書いてきたのでとりあえず過去記事で近いことを書いているなと思う部分を先に貼っておきます。

 

生きづらいのではない、生きる意味がないのだ - メロンダウト

自由で、個人が尊重されるようになっていってる。

しかしそれこそが問題として噴き出してきている。今、僕達に起きているのは自由な個人でいるゆえの問題ばかりだ。

 

くさいおっさんとコミュニケーションコードと耐性 - メロンダウト

 この清潔な社会で適応して生きるには原則としてジェネラルでいる必要がある。ある程度普遍的な人間のスタイルを保持しながらそこに軸足をかけてのみ逸脱することが許されている

 

個人主義が福祉をぶっ壊している - メロンダウト

 今は企業社会においてもインターネット社会においても完璧な社会に傾倒しすぎているような気がしている。企業は経済的に純化され雇用の流動性を上げ個人に人材としての役割を課す。ネットは不完全な他者を炎上させる装置として機能している

 

シガレッツ&ポリティクス - メロンダウト

 ある事物を政治化したら民主主義なんだから全体化するゆえに部分最適からはずれることになるって側面になんでもっと慎重にならないのか意味がわからない。

 

日本で起きている最大の問題は信頼の不況化ではないか? - メロンダウト

昭和期の国民国家によって与えられた人間像(ナショナリズム)はグローバリズムという不可避の事態によって解体し、企業の家族性も経済効率によって解体し、日本人には宗教も一般的ではなく、さらに最後に残った目的のない人間関係もインターネットによって解体し始めている。

その全てをもって人の自己存在の不安は増大し「なにも大切ではない社会」 になって社会がどんどん即物的な消費にはしり動物化していっているような印象を強く受ける。

冒頭に戻ればつまり個人主義は人の聖域を解体しつくして利己主義を生み利己主義者を信頼することは難しいので信頼の不況化を生む。それが近年になって問題とされている日本の閉塞感の最も重要だが解決不能な問題となっている

 

 

 ということで今回の記事は終了、というわけにもいかないので真面目に書評のようなものを書いていきます。

シロクマさんが著書の中で一貫して書いていることはタイトルにもある通り健康そのものというより「健康的価値観」を至上のものとした時の社会的ひずみについてだと思います。どの章でも「正しい場所や価値観は隙や余白がなくむしろ窮屈だ」といった疑義が根底にありその違和感を持って本書は書かれているように読める。その社会を構成する要因としてシロクマさんは資本主義による画一化やネットの確証バイアスなどを理由としてとりあげていて

僕は過去記事でも書いた通りこれに100%同意するのだけどもっとありていに言ってしまえば理科学にたいする無手の信仰に近いのではないかと最近は思うようになった。つまりこの社会というか世界において1を1としないことは認められないゆえの問題に近いのではないか。

ありとあらゆる議論において論理は至上のものとされ論理的でもなくエビデンスもない言論はむしろただの馬鹿の意見だというのが支配的である。とくにインターネット上においては。これが話を単純化してカットケーキのように世界を切り取る価値を生み出している。それがつまりコピーライティングのようなワンフレーズでの清潔な社会という秩序や健康という生き方を生むことになる。つまり1が良いか、2が良いかという数字の比較をすると必ず大なり小なり符号によって比較されその結果として清潔か不潔かみたいな話になってしまう。そういう比較がまともな議論であるかのようになっていることがそもそもの問題となって今日のような状態を生んでいると、僕は思っている。

人文的な議論において1が1だということは明証的であるがしかし確定しているわけではない。最も原初的な例をあげるとデカルトが「我思うゆえに我あり」と言った過程がわかりやすい。デカルトキリスト教の信者だったが当時のキリスト教の公式見解だった天動説がコペルニクスによって否定され何を信じていいのかわからなくなった。その結果すべてにたいして疑問を持つようになり1が1であることもたとえば周囲の人間や本が何者かによってコントロールされていて2を1と思い込んでしまっている可能性も否定できない。ありとあらゆることは否定可能であるが自分が自分を疑っていることだけは確かなので「我思うがゆえに我あり」と言った。つまり1が1であることは明証的ではあっても確定しているわけではなくそれはありとあらゆるものについてもそう言うことができる。その前提を持ってすれば1を1として全体化することのおかしさを自覚するべきであるがしかしもう人文学は無用の長物扱いされている。民主主義が正しいとかもっと言えば法律が正しいとか法律をやぶってはいけないとかそういう徹底的な正しさを敷設するとかなりおかしなことになる。

法律は時と場合によってはやぶっていいし1よりも2を優先すべき時もあるという当たり前の余白がない社会の徹底ぶりはシロクマさんの著書にたいする回答のようなものにはなると思う。

以上のような考え方は頭悪い文系が考えた無用の長物とされるだろうけどさらに書いていくと僕はシロクマさんの本を読んでいた時に亡くなられた西部邁さんのことを思い出していた。

西部さんは保守と自称していたがその実、徹底的なリアリストで現実の複雑さを決して手放そうとしなかった。核武装論にしてもそうであったしジェンダーにたいする問題でもそうだった。現実はこんなにも必然であふれかえっているのにどうして自由を自由としてしか考えないでいられるのかと。亡くなられたことは残念極まりないが西部さんが西部ゼミナールという番組で情報について語られていたことがあり、僕はそのことをシロクマさんの本を読みながら考えていた。

情報化社会についての回だったかで英語のinformationという言葉を分解するとin-formで型に入れ込むという意味となると仰っていた。とてもよく覚えている。情報は情報としてしか考えられていないけれど僕らはあまりにも情報にたいして無警戒すぎるのではないかと思ったからだ。

それはシロクマさんのいう清潔や道徳についても言えてそれらの価値観は実は情報によってかたどられている部分が大きい。情報化社会という言い方を最近ではよくするけれど情報化社会の化の部分がなぜはいっているのかを考えるに情報そのものに化ける社会という意味において人間が情報と同質化してしまう社会だというふうにも言える。それは例えば清潔感が大事だという情報であったり挨拶は元気よくという情報だったりそういう適切さを徹底することによって人間が情報になり情報もまた人間になっていく。そのような人間はシロクマさんの本の中でも書かれていた。

冒頭第1章29ページの新卒採用について書かれているところ

「誰もが同じようなエントリーシートを書き、テンプレート通りのふるまいを期待されている」

これもリクルートによって情報化された人間のひとつの例ではないだろうか。

 

ここまで理と情報について疑問を呈してきたがこれらのことを乗り越えるのにみなが人文科学を勉強し、1を1と規定しないでいられる社会をつくろうと言いたいわけではない。それは一般的ではないしそういう教養のようなものをつくらなくてもいいかげんで清潔ではない社会は存在していたはずである。

なぜこのような極端に理と情報およびそれに準ずる秩序に振り切れた社会になるのかだけど囚人のジレンマで説明できると思う。

共同で犯罪を行ったと思われる2人の囚人A・Bを自白させるため、検事はその2人の囚人A・Bに次のような司法取引をもちかけた[6]。

本来ならお前たちは懲役5年なんだが、もし2人とも黙秘したら、証拠不十分として減刑し、2人とも懲役2年だ。
もし片方だけが自白したら、そいつはその場で釈放してやろう(つまり懲役0年)。この場合黙秘してた方は懲役10年だ。
ただし、2人とも自白したら、判決どおり2人とも懲役5年だ。
このとき、「2人の囚人A・Bはそれぞれ黙秘すべきかそれとも自白すべきか」というのが問題である。なお2人の囚人A・Bは別室に隔離されており、相談することはできない状況に置かれているものとする。

囚人のジレンマ - Wikipedia

他者が理を取ると予測する時にこちらも理をとらざるを得ない。それが囚人のジレンマの社会的な意味だと僕は思っている。

上に貼った記事に日本で起きている最大の問題は信頼の不況下ではないかと書いたが他者を信頼できなくなった時に僕たちは理を取るしかなくなる。損を取ることはできない。それは外部条件的に。たとえばシロクマさんの本と関連して言えば不潔でいいかげんな人間が存在できる社会が良い社会だと考えていても自分自身が不潔になりあまつさえ不幸になることを僕たちは選ぶことができない。

そうやってみんな合理を選択することになる。誰が望んだわけでもないその理が清潔で秩序ある道徳的な社会を生むことになる。シロクマさんの著書はまだ半分しか読めていないけれどそういうふうに僕には読める。そしていかに先んじて理をとることができるかに躍起になり情報を集めることでその情報通りの行動をとるようになる。そして情報と同一化していく。

ゆえんこの世界に自由などない。あるとすれば自由という情報だけである。

と西部さんなら言うだろうなと思った次第である。

書評はどうやって書いていいのかわからないのでいつもの感じで書いてしまったけど続きを読んで気が向いたらまた書いていきまする。

 

ところではてなブックマークにコメントを書くのはもうやめようと思ってます(というかやめてます)という記事もまた気が向いたら書いていきます。