メロンダウト

メロンについて考えるよ

からっぽの国民とからっぽの政治家

シロクマさんの著書「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて」を一通り読んだけれど今度は三島由紀夫のことを思い出してきた。

三島由紀夫は日本はからっぽの国だと言ったがそれはシロクマさんの著書にも通じるところがある。以前、このブログでも日本人の無謬性について書いたけれど

plagmaticjam.hatenablog.com

 

いわゆる清潔も無臭という意味において「無的」な価値基準であり喫煙をし無いということもそうでパワハラなどで人に干渉し無いことも無に向かう価値基準であると言える。

フェミニズムも男女の格差を無くすという理念でありリベラルも貧困を無くすという意味において同種の性質を持っている。リベラルは本来、進歩主義という側面も持っていたがそれがいつのまにかたち消えてしまったのも進歩は「無」という価値基準と相性が悪いからかもしれない。

ありとあらゆる有事を無くすことにより世界を無事にという考え方が日本においては支配的でありそれは平和主義とも言えるし非武装中立とも言えるが同時にすべてを無意味にする危険性をも孕んでいる。そんなことを考えるようになった。つまりこの国においてはからっぽであるほうが善であるようなそんな空虚さが社会のあらゆるところに貼りついている。それが清潔だったり健康だったり秩序だったりするのではないだろうか。

 

それはベタな生活においても言えることで出世したくない若者が増えたというのも出世することは無事では済まない可能性があるからで出世したからといって出世した人が偉いという価値基準も無化されている。リベラルが台頭するようになると弱者のままでも無事に過ごせる権利があるのだという思想が頭の片隅に置かれることになる。そうやって現実を無化していくことにより出世も同時に無価値なものだと考えるようになる。物質的にもこれだけ充足した社会において精神的な意味において出世したいという思想も無化されれば出世したいと思う若者が減ることも当然である。

恋愛においても同様のことが言える。端的に言って恋愛が無事に済むことは稀だ。その点で無と恋愛は非常に相性が悪い。無謬性を持っている若者は恋愛をしなくなる。無謬性を恋愛に適用すると唯一恋愛関係として成り立つのは無と無の組み合わせしかない。相手を尊重して相手の自由を妨げない関係が現代における理想の恋愛として語られるのも無という価値観が善だという思想的な背景ゆえだと言える。もはや愛しているかどうかなど関係が無い。男性は中性的で無謬で透明感がある人間がパートナーとして理想とされるのもその存在がどこまで無謬であるかどうかという判断ゆえの結果だと言える。

 

からっぽであることはこれまでは程度問題として悪いこととされてきたはずである。無謬であることもそうでおまえは自分の意見が無いということも悪いことだと言われてきた。しかしもう意見なんてものは発した瞬間に無という価値基準にてらせば悪者扱いされる。そうやって誰からも何も言われず有事に晒されることがないまま大人になった若者をこらえ性がないゆとり世代と一昔前に言っていたけれどそれは程度問題として僕は正しい言論だと思っている。有事にさらされた経験がないとちょっとしたことが本人にとってはおおごとになる。それは身体を貫く感覚として誰もが知っていることだろう。

セクハラやパワハラが社会問題として認識されるようになったのも暴力や体罰などのそういう経験が圧倒的にない世代が社会に出てきたのと重なっている。もちろん暴力や体罰はダメである。しかしものすごい端的に言えば生きてれば何か起きる。それはほとんど必然として何か起きる。そしてなにか起きた時にその有事に耐えることができるような経験は必要だということも言わないとダメなのだと思う。暴力や体罰はダメだが同時に経験が大事だと言うのは両論として存在するべきでどちらがという話ではないはずだ。しかしこの国ではからっぽが善だという価値基準に照らして暴力も体罰もそれによる経験もすべて無化することにした。

パワハラやセクハラが有事かどうかは個々人の胆力に完全に依存するので断言するべきではないが有事が無事では済まないということは無事すぎる社会だから起きた有事だということが言える。

 

このようなからっぽ大作戦を最もうまく使っているのが政治である。国政における安倍晋三も都政における小池百合子も無という価値基準を使い、いかに自らが無謬で善良な政治をしているかを演出している。

安倍総理に関しては言うまでもなく問題を問題そのものとしてとらえるのではなく言葉の定義を有耶無耶にしたり行政文書を破棄して無くすことにより議論がすすまずそうして時間が経っているうちに国民が忘れることを待っている。

桜を見る会なんかみんなどうせ忘れる - メロンダウト

そうやって問題そのものを無化することによって続いている。

小池百合子に関してはもっとわかりやすい。満員電車0、花粉症0など7つの0を公約に掲げてすべてを無くすことをマニフェストとして打ち出していた。皮肉なのは達成できたものも無いということであるが。

国政に関しても都政に関しても自民党か無所属かの違いはあれどどちらも無謬性を持つ国民に支持されていることを考えればとても納得がいく。つまりこの国では右も左ももう政治に影響などしていない。右も左も気の迷いのようなものである。この国を支配しているのはからっぽという無である。政治はいかにからっぽであるか競争をして無を実現できるかにかかっている。なぜなら大多数の国民が無謬性を持つこの国ではいかに無謬でいられるかが選挙における鍵となるのだから。

 だから政治家は何も言わないということを言う技術が重要になってくる。

そう、小泉進次郎のポエムのように

気候変動のような大きな問題は楽しく、クールで、セクシーに取り組むべきだ。

 クールでセクシーで楽しければもはやなんでもいいのである。