この前こんな記事を書いた
批判も議論も、あるいは誹謗中傷でさえブログでやればいいという趣旨の記事
この記事を書いてから自分自身がはてブにコメントしているのはどうなのかと考えるようになった。実際に自分のコメントで傷ついた人もいるはずだ。他人が書いたコメントは本人がどう受け取るかわからない。誹謗中傷したつもりはなくとも誹謗中傷に受け止められてしまうこともあるはずでそれは短文であればあるほどその危険性が高い。コメントはその短さゆえに勘違いや齟齬、過誤を生みやすい。文章にすれば程度問題として伝わることもあるだろうけどコメントはそうではない。
もちろんそうではない穏当なコメントを書ける人もいるだろうけど自分はそうではない。頭がいいわけでもないし他人に簡単に嫉妬するしクソみたいな感情を押し殺して生きてて気を抜いたら不倫のニュースにすら批判的なコメントを書きそうになる。それをしてはいけないという理性によって書いていないだけだ。だから誹謗中傷する人間の気持ちが実のところわからないわけでもない。幸福そうな他人が転落するのが娯楽だという感覚はわかるしそれを助長するために平気で安い正義感を振りかざすのは楽しいことなのだろう。
それを抜きにしてももうはてなブックマークを見てコメントする意味がわからなくなっていた。今年に入ってからははてブを見ることがもう完全に習慣化していてはてブを見る意味も何も見いだせなくなっていた。トップに上がってくる記事はだいたいすでに見たことのある内容の記事とニュースおよびどうでもいい増田だけでメディアとしての利用価値ももうない。はてなはもうそこに所属していることだけが唯一のオリジナリティーで完全な村と化している。そういうふうに僕には見えている。だからもうはてなブックマークを利用する意味もなく個人的な利用価値としてはテレビと同等かそれ以下となった。
まだ互助会が盛んだったころはマシだったんだろうなと思い返すことができる。個人のブログがはてブにあがっていたころだ。個人ゆえに拙いけれど個人の論考がはてブにあがってきて読んでいたころは楽しかった。だいたい無防備に書かれた記事なんてものははてブに晒されれば批判されるのだけどそういう無防備な考えを書いている個人のブログほどインターネット的なものはない。その稚拙さと無防備さと純粋さが好きだった。だがそれはもうない。
ものすごいベタに言えばいろんなことを考えている人がいるんだなと知的好奇心を満たされるものが以前は多かった。テレビは情報しか流さない一方ではてブなどのウェブメディアは知らない世界で生きる人を知るツールとしてとても有用であった。
互助会と批判されていたピピピピピさんのブログなども好きだったけれどああいう在野の個人の考え方を書いているブログなどを知る場所としてはもうはてなブックマークは機能していない。それは互助会を排除したことによってそうなったわけだけど快適さを追求するあまり雑多なものを排除していくなんて社会で起こっていることとなんら変わりはしない。いいかげんな店主がやっている店は潰してコンビニとイオンモールで埋め尽くされる郊外の地方都市となんら変わりはしない。それが今のはてブでありそれゆえにもう見る価値がない。イオンに行っても置いてある商品は高が知れているのだからそこに発見はない。便利さと快適さに支配された村にはもうなんの面白みもない。快適な情報収集で言えばはてブよりヤフーニュースや新聞を見たほうがよい。よってはてなブックマークは僕にとって魅力のない場所となった。
大衆の要望によりそのサービスを「整地する」ということはなんであっても結局は世界の論理と同質化していくことでしかない。はてブも互助会やまとめサイトを排除して表面的には正しいメディアにデザインしたのかもしれない。しかしそこに残されたのは増田という村の談合と炎上案件でのびた話題およびニュースだけでしかない。それはしょうがないことでユーザーの要望をそのまま聞けばそうなるのは自明でテレビがそうなったのとまったく同じ文脈を持ってはてなブックマークもつまらなくなった。そしてそこにつけられるコメントももうテレビを見た感想程度にしか見えなくなってしまった。
具体的に言えば政治系の記事を見た瞬間につけられるコメントは容易に予測できる。反安倍が常態化しすぎていて政治を議論できる場所ではすでにない。仕事や人間関係の記事につけられるコメントもリベラルに似せた自由奔放主義で現実への戦慄を無視したスター至上主義に支配されている。
そうしてすべてが収斂していく。はてブのトップページに限った話ではあるがそれを追うことはもう僕にとっては時間の無駄でしかない。マイページも結局は自分が気に入った情報の範囲を出ない。はてブにあがってくるカオスな記事が僕がはてなブックマークに期待していたものだがもうそういう記事はあがってこない。あがってくるとしてもそれを逐一見るのは時間の無駄と言っていい状態で誤配が機能する場所ではもうない。
ゆえん民主主義はつまらない。多くのユーザーが望む状態にサービスをデザインすればするほどつまらなくなる。正しい情報だけを集めた情報ほど正しくない情報群はない。正しくない情報が混在して相対化が機能してこそ情報への姿勢が開いていると言える。