メロンダウト

メロンについて考えるよ

「分断の時代」は本当なのだろうか

「分断の時代」みたいな話をもう随分前から耳にする。僕もそうなのかなとは思うけれど、他方でみな一様になっている気がしないでもない。同調圧力という言葉もあるけど、圧力に屈して同調するというよりもなしくずし的な諦観によってみんな同じような「感じ」になっている印象を受ける。というか、みな一様になりすぎてむしろ分断したいのではないかと。最近はそんなふうに見えてきた。

 

今の時代、なにかおかしなことをSNSに投稿してそれに賛否が集まることを分断と呼んだりする。しかしながらそれをインターネットに投稿する「様」はみんな同じでスマホに指を走らせてるだけであったりする。どのような思想的な差異があろうとも外形的に見ればスマホをポチポチしているだけであるし、当の思想に関しても、学術書を読んで共産主義に傾倒したりする人は極めて稀で、多くの人の場合、単なるネットサーフィンの結果またはネットサービスのアルゴリズムによってたまたま表示された「偶然によって割り振られた思想」に過ぎなかったりするのではないか。

 

たとえば、僕は長いことはてなでブログを書いていて、なにか社会的なことを考える時には「はてな的思考」に囚われているなと感じることがある。はてなブックマークの人はどのように判断するか、あるいはどのようなことを書けば燃えてしまうのか、といった枠組みを長年書いていると意識せざるを得なくなり、その枠組みに制限されていると感じる。とはいえはてブはまだそこまでではなく、フォローやフォロワーという関係が希薄なため、そこまで気にする人は少ない。しかし、他のSNSのようにフォローフォロワー関係が大切なサービスではそうした制限が強く働くことになる。
簡単に言えばなにを書くかや言うかは人間関係に規定される。それはネット上でもなんら変わることはない。それどころか下手したら数の圧力のおかげで現実のそれよりも人の言動を規定しているのが今のインターネットではないかと。
定説としてはインターネットは匿名空間なので関係性や対面性が失われ罵詈雑言が飛び交う危険な空間であると言われてきた。しかしここまで巨大化し、市民権を得たインターネットはむしろ対面のそれよりも人間関係に規定されていやしないだろうか。

フォローフォロワーの関係の中でフォロワーにウケることばかり書く圧力が少なからず働くし、最近では何にいいねを押したのかどうかすら追跡されることもあるみたいだが、そうした関係の中にいると自分が本当は何を考えていたのかよくわからなくなってしまう危険性があるように思う。僕も一時期、ツイッターに書いていたけれど、即座に返ってくるいいねと顔の知らないフォロワーとの関係はとりわけ言論的なことを書くサービスとしてはやばいと感じていた。
ウケることを書いてそれを繰り返していくうちに自分の考えや、あまつさえ経験則までもがウケに侵食されて変質してしまいかねない。いったい何を言いたかったんだっけ、となる。そうして出来たウケがSNSには点在しており、その点在したウケ同士のことを分断と呼んだりするわけだが、実際のところそのウケとは当の本人の思想ではなく単にそのコミュニティーが錬成しただけの化合物であったりする。また、その化合物の虚仮さや馬鹿馬鹿しさに躊躇がないまま乗っかるバイタリティー溢れる人物のことをインフルエンサーと呼んで有難がっているだけなのではないか。


ようするに分断と大仰に叫んでみてもそんなにまともに相手にするほどの分断があるのか、という気になってくるのだ。投稿された文字列だけを見れば思想的にはものすごく大きな差があることが書かれているとしても、何を書いていようが傍目から見ればスマホをポチポチしているだけで何も変わらないではないかと。
ましてやその書いてあることがウケに左右されているだけの化合物であるならば内実すら取るに足らないものの場合もある。もちろんすべてが取るに足らないくだらないものだと言いたいわけではないのだが、政治的分断と呼ぶほどの分断は「本当にそこにあるのか」ということがそもそも疑問なのである。
アメリカのようなキリスト教保守が強い中で肌の色からして違う多民族が暮らすと同時に州の自治権が強く地方色が様々な国であればまだしも日本で分断と呼ばれているものはようするにスマホに何を打ち込むか程度の話でしかないのではと。

日本もかつてであれば富裕層と貧困層アウトローとサラリーマンは外見からして違ったし生活様式や着ている服も違った。地方に行けば方言で何を喋っているのかわからないところもあり、アイヌのように根本的な生活が違う人々もいた。
しかし今は地方でも東京でもみんなアイフォンを持ち、ユニクロの服を着て、社会に溶け込んで過ごしており、外形的な差異はかつてよりもかなり少なくなった。みなジェネラルに振る舞い、優しく理解のあるコミュニケーションを取りながら、「ただ単に」スマホに打ち込む文字列だけが違っていたりする。

そうした生活世界を過ごしていると分断よりも同質化のほうが傾向としては強いように思う。そうした同質化に抗うためにネット上でできた化合物のことを分断と呼んでみたりして「僕達はみんな違うんだ」と思い込みたいだけだったりするのではないだろうか。
人はみんなと同じことに安心を覚えると同時に不安を覚えるなんて言われる。経験則としてもそのように思う。なにかこの社会の中で許されうる、明らかな、人との違い。
その欲望がネット上に積まれており、それを逐次取り出して見ることによって僕達は多様で分断されているんだと、なかば自己暗示のように分断を唱える。つまり同質化の息苦しさを鎮めるために僕達は分断されているんだと時折言わずにはいられなくなっているのではないかと。
だとすれば分断を解消したいという言説は社会的方便であり「社会は分断されているんだ」という言論はこの同質化していく社会にあってはどちらかと言えば癒しに近い機能を持っている。

 

繰り返しになるが、スマホに何を打ち込むかなんてたいした違いではない。
何を書くか、というのも気分に依る。僕もこんなことを書いているがそのうち社会は分断している、なんて放言を書くかもしれない。内容のみならず文体だってそうかもしれない。癪に触る文体だとしても嫌なことがあっただけ、ということもあるだろう。
誹謗中傷している人が実際に会うとしおらしい人物であるように、SNSに何を書くか、というのはその時々の現象・構造・気分・境遇にはめ込まれているだけでその人のほんの一側面に過ぎなかったりするのだろう。
その程度の違いを分断と呼ぶことがはたして適当なのだろうか、なんてことをアベプラを見て思いました。

 

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