メロンダウト

メロンについて考えるよ

思想の重要性~なぜ人は人に助けてと言えなくなったのか~

なにかいろいろ考えさせられる記事

mainichi.jp

コロナで失業した女性の記録だけど、自己責任社会極まれりみたいな内容で悲しくなってしまった。なんでここまで「助けて」と言えないのだろうか・・・

なんてことを書いてみても自分も同じ状況になったとして「助けて」と言えるかどうかわからない。おそらく言えないだろうな。歳を重ねれば重ねるほどに言えなくなる。学生のころはお金なくて気軽に友達に飯おごってとか言えたものだけど今言うのはやっぱり気がひけてしまうな。大人は自立してなければいけないと考えている人が多くてたぶん自分もそういう社会に飲み込まれ、あるいは加担してしまってるのかもしれない。しかしここまで助けてと言えない社会、バラバラに分断されて貧困にあえぐ人がその精神すらも自縄自縛となっているのはなんなのだろうか。個人主義自由主義リベラリズム、資本主義と聞こえはいいけれどどれもこれも生き方として設定した瞬間にそこから外れた人にスティグマを与えてしまい、その人は助けてと言えなくなる。

誰だよこんな地獄みたいな社会をつくったのは・・・なんか書いててむかついてきたな。

子供が貧困にあったとしてもその境遇は偶然として判断され同情されるけど、大人が貧困になると今まで生きてきた結果として判断されてしまう。本当はそんなことないのにね。子供だろうと大人だろうと人生は偶然に支配されてる部分があまりにも大きくて人間一人が自立して生きていけるなんて完全に幻想に過ぎないのに。

つまるところ「自助」なんてものはないのだと思っている。ブコメにも書いたけど

#自助といわれても:気づいたら全財産103円 42歳女性が「見えない貧困」に落ちるまで - 毎日新聞

自助って一言に言うけど死ぬまで自助できてしまうのが人間だからこそ共同体や行政からの支援が必要なんだよね。誰にとっても他人事じゃないはずなんだけどな。

2021/01/23 19:03

b.hatena.ne.jp

もちろんたとえば平時においては自分の体を気遣ったり栄養バランスを考えたり自己投資したり自分の人生を自分で選んでいくということは当然あるにせよ、助ける助けられるという段階まできたら自分で自分を助けることはもうほとんど不可能だと言うべきだろう。菅が自助共助公助と言っていたけれど人間は死ぬまで自助できてしまう生き物で、そんなことはホームレスの方を見ていればわかりそうなものなのに。家を失おうがゴミを拾おうが犯罪を犯して刑務所にはいろうが結局のところ生きてしまえるのが人間で、しかしそれをもってして彼は悲惨さではないと言うことはできないだろう。

共助なんてなくても食糧を盗んで食べればいい。自助はどこまでも機能してしまう。自助は無限に続いてしまうもので、それこそ死ぬまで自助で生きることも不可能ではない。しかしそれはもう生活と言えるほどのものではなくなってしまう。

だからこそ自助なんてどうでもいいから困ったら行政なりNPOに頼ってくださいと言うべきであり、自助なんて言葉ははなっから存在しないものとして宣言したほうがいい。自助という言葉を政府が言うこと自体がそもそもおかしいのだよ。

 

しかしながらこの手の問題は政府の問題よりも社会の問題としてとらえたほうが良い気もしている。政府の問題はあるにせよ、社会が抱える問題のほうがはるかに大きい。

冒頭にも書いたように僕達は「助けて」と言えない社会に生きている。行政の支援の方法云々よりもこちらのほうがはるかに深刻だ。他人にたいして助けてと言えない。本来、政府に頼らずとも人は人と助け合いながら生きていくものという大前提が社会から欠落しているように見えてしまう。もちろん人は人を助けるという理念自体はまだ言われるし、そう考える人が多いと思う。しかしそれが実際の社会の中で流通しているかどうかは疑問が残る、というかほとんど機能していないのではないか・・・

たとえば元事務次官が自分の息子を殺害した事件も記憶に新しい。ひきこもりの息子が他人に迷惑をかけるかもしれないからという理由で殺害した。これも社会を信頼できなくなった末に起こった事件とも言える。他人に迷惑をかけていい社会であれば息子は生きていてもいいと、そう考えることもできたはずだ。他人に迷惑をかけてはいけないというその道徳がむしろ人をかたくなにし、時にゆがませる。ゆがんでいたのは父と息子どちらなのだろうか。そう考えてしまう。他人に迷惑をかけてはいけないという道徳を信奉する父とひきこもりの息子。正しさにふりきれた父とその正しい社会に順応できない息子のどちらもが被害者に見えてしまうのだ。

 

この手の問題は僕が記憶している限り10年以上前から言われてきたことだ。新自由主義が台頭してきて資本格差が広がり個人主義が蔓延してきて他人と他人が断絶されるようになったのはすくなくともここ10年20年あまりの出来事で、それまでは人と人が入り混じって生活していたように思える。小学生時分にサッカーをしていたら近所のおやじに怒鳴られたり今よりもお店の人がフランクに話しかけてきたり、ありていに言えば人と人との心理的距離が近かったのではないか。もちろんそのような社会では相応の衝突があったのだろうけど、それでよかったのではないだろうか。僕はまだ子供だったけど、そういった人と人がないまぜになった社会のほうがはるかに生きやすかったのではと、そう思うのだ。それがいつのまにか人との衝突そのものを避けるようになり、他人には侵犯してはいけないというのが大前提になった結果、個人は個人で分断され、すべてを個人の責任に帰依させ、その結果個人が困窮した時に誰も頼ることができない社会ができあがった。

最近もバス停で寝泊まりをされていたホームレスの女性が殴り殺されたという凄惨な事件があった。彼女も親族に頼ることができないまま寒空の下で亡くなられてしまった。助けてと言えない社会はものすごく非人道的な社会なんだということを改めて言いたいのだ。人は一人では生きていけない。あえて比較するけれど、たとえば戦争や災害のようなものよりもはるかに悲惨なのが孤独であり、孤独だけが人間にとって真に問題なのに僕達はあまりにも孤独に、バラバラに生きている。それは一見資本主義に順応してうまくやっているように見える人でも例外ではなく、金の切れ目が縁の切れ目と言われるように資本主義的に絆を結んだ人に助けてとはおよそ言えるものではない。

個人主義者は個人になった瞬間に孤独になるしかない。それが個人主義の最も残酷な帰結である。だから僕はこのブログでもさんざん個人主義を批判してきた。リベラルでも保守でもなんでもいい。個人の前にくる何かを人は持つべきであり、たとえばナショナリズムでもリベラルでもなんでもいい。個人の前に国がくればそれは極右的な思想になびいてしまうかもしれない。しかしそれでも個人主義よりははるかにましなのだ。なぜなら助けてと言えるからだ。リベラルでもいい。個人の生存よりも個人の自由を高次なものとすれば自由ではないと思えた瞬間に助けてと言えるからだ。宗教でもいい。死ぬ前に神や教会に頼ることができる。とにかくなんでもいい。個人主義を最上位において外部と関わらずに命すらも投げ出すような思想よりははるかにマシなのである。

 

この手の問題はなぜ人は思想を持つのかといった問題に直接かかわってくる。実際、平時において個人主義は自由そのものであり、なにも問題はないように思える。僕自身もそうだ。人に頼らなくても問題はない。しかし個人主義に飲み込まれそれを完全に内面化してしまうと、いざ有事になった時に人に助けてと言えなくなる。それは冒頭記事の女性もそうだし文中で書いたホームレスの方もそうである。そして誰も彼もそういう状態にならないとは限らない。だからこそ人はその時のために何かに「依存」する訓練をすべきであり、自立した個人というのは平時における幻想にすぎないのだということを再確認すべきなのだ。そしてそれを実践するには個人の前にくる思想が必要であり、思想を持ってこそ個人は助けられうる存在として存在しうる。共同性や思想、保守やリベラルとは今でこそ空虚なものとして響くかもしれないが、そうではない。思想こそが最も現実的な手段なのである。