メロンダウト

メロンについて考えるよ

虚無主義者から見える世界

自分のような人間をなんと呼ぶのだろうか。随分前からそんなことを考えていた。いわゆるリベラルでもなければナショナリストでもない。あるいは保守主義というわけでもない。もしくはリアリストというわけでもなさそうだ。ここまで抽象的に文章を書いておいてリアリストであると自称するわけにもいかない。では自分は何者なのか?というとベタに言えば生活保守であり、思想的には実存主義虚無主義が最も近いのだと思う。

はてなID名にしているplagmatic(正しくはpragmatic)は実存という意味で、プラグマティズムの有名な言葉に「実存は本質に先立つ」という言葉がある。ものすごく大雑把に言えば「そこに人間がいてそこからなにがしかの思想や本質が抽出される」と考えて良いと思うけれど、実存だけが問題であるというのは自分の考えに最も近い。

このブログでSNS上での思想的対立、党派性全般にたいして批判しているのも、右左という思想的枠組みに何の意味があるのかという根本的な懐疑が自分の中にあるのだと思う。

「実存しかないのだからそんな議論したところでどうしようもない。人は金が無ければパンを盗む。人間はそれ以上でもそれ以下でもない」

という絶対の諦観が自分の中にあって、そうした意識のうえでゆえん「眺めている」だけなのだ。そのような意識でいると議論する時にある種の露悪性が出てくる。それは文章の端々にも現れていると思う。自分でもよくわかっている。そして、同時にこうした態度が幼稚な態度であり、失礼にあたることも了解している。そもそも論として議論をひっくり返すのはあまり良い態度とは言えないだろう。だから表立ってすべては無であると書くことはしない。ただどんな議論にたいしても1%の虚無さはどこかに残りながら文章を書いている。僕だけではなく、みなある程度そうした虚無の上にたって何かを語っているのだろうけれど、自分は人よりも虚無が占める割合が強いように思う。生活に係る実存以外についてはそれほど本気で考えてはいないのだ。

 

近年ではこうした態度は冷笑系と呼ばれるものだけれど、冷笑するからこそすべてを些事として捉え自由になれるという側面がある。古い言葉で言えば犬儒主義、犬儒学派と呼ばれるもので、慣習から自由になり独立した生活を営むためには冷笑が必要になるという倒錯した構造が人間にはある。冷笑によりすべてを眺める対象にしてしまうことでむしろ自由になれる。そしてそれが無責任であると批判されることも当然ではある。しかし人間が自由になるというのは原理として無責任な側面を含む。自由とはつまりそれだけのことでしかないと思っている。自由な個人は自由な議論をして自由な発言をする。それは実質何も言っていないのと同じであり、何も言っていないとはつまり虚無であるので自由とはつまり虚無とニアリーイコールな概念でしかない。そうした諦観が自分にはある。その意味では自分も自由主義者と言って良いとは思うけれど、直接的には虚無主義者と言ったほうが的を射ているだろう。

 

人間的には非礼にあたる冷笑が結果的に犬儒に到り、個人を独立させるというのはギリシャ哲学のころから言われてきたものであるけれど、SNSによって個人を規定する今こそ必要とされているような気もしている。もちろん上述した通り冷笑や犬儒は虚無的な態度であり、露悪性と切っても切れず、すべてを切断してしまいかねない「危険な態度」である。なので意識して現実にコミットする必要が出てくるし、意識して思想に意味を求めようとしなければ近代社会では単なる放蕩者になってしまう。それは回避すべき悲劇ではあるはずだ。それでもなお冷笑が自由の原初的態度だと僕は思っている。

自由は虚無である。犬儒的に考えれば自由は無責任な行為であり、虚無と切っても切り離せない。ゆえんリベラルが言うところの「自由は大切な価値観」だという思想に100%共鳴できないのも犬儒としての自由が邪魔をしているのだ。僕も自由が大事だと思っているけれどそれは自然権としてであり、自由自体が大事だとはあまり思っていない。自由よりも生活や実存が大事であり、自由とは本来虚無の領分だと思っている。だから自由を高潔なものとして取り扱うリベラルに関しては何を言っているのかよくわからない時がある。

もちろんリベラルも保守もそのようにして切り捨てて良いものではないけれど、僕個人に関して言えば思想の是非云々よりも以前の実存的懐疑によってほとんど何も真面目には考えていないのだと思う。それが虚無主義と言えばそうなのだろう。それを批判されればグウの音も出ない。

こうした自然的自由、原理的自由を標榜していたのが坂口安吾で、『堕落論』に書かれていたことはようするに人間には「本然」があるというものだった。人間が説く倫理や規律など所詮あとづけの論理でしかなく自由とは本来そうしたものではないと書かれていた。それは今の自分の態度とほとんど合致している。人間は堕落する動物で、自由という怠惰に依り、単に死ぬ。それ以上のことを議論することに、もちろん意味はあるものの、安吾が書いたような絶対の自然的諦観を、僕はいまだにぬぐい切れていないのである。