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憂国のフジロック~オーバーポリティクスと政治的個人主義~

切り込み隊長がフジロックに関する記事を書いていた。

bunshun.jp

フジロックに限らずここ一年でコロナの感染リスクは「比較」され続けてきた。夜の街、パチンコ店、飲み屋、職場、福祉施設、満員電車、五輪などなど。そして自粛要請に沿ってコロナを抑えてきたこれまでとは違い、緊急事態宣言は事実上ほとんど機能しなくなってきている。

そんな状態でことさらフジロックだけを槍玉にあげることにどれほどの意味があるのだろうか。例年であれば自分もフジロックサマーソニックに足を運ぶ人間で、どういう場所かわかっているけれど、感染リスクだけで言えば飲み屋や職場のほうがそのリスクは高い。

例年のような歌って踊って騒いでという状態であれば糾弾されてもしょうがないとは思うけれど、ライブ映像で確認した限りどのステージもそのような状態ではなかった。ライブが終わればお客さんは散開するうえ、屋外での感染リスクは室内よりも低い。もちろんリスクがゼロにはならないけれど、フジロックだけをことさら糾弾することはナンセンスだと言えるだろう。もはや日常のあらゆる場面で感染リスクの高い行動をしている人々がいる。その全てを糾弾することなどできないし、すべきでもない。


問題はこうした状態にたいして政府がほとんどなにも「用意」してこなかったことではないだろうか。国民が自由に行動するはもはやわかりきっていたことで、それを逐一あげつらい比較したところで何の意味があるのだろう。せいぜい「私は自粛している」という優越性、正義、嫉妬感情を想起させるだけだ。自粛しない人々を叩いたところで憂さ晴らしに過ぎず、いまやそうした「憂い」が国全体を覆ってしまっている。

 

国民ひとりひとりの行動に関してはもうどうしようもないのだろう。国民の危機意識も薄れ、政治も明確なステートメントを発さず、経済的にも自粛するほうが馬鹿を見るような状況にあって感染を抑えることは事実上不可能となっている。

理由は様々考えられるけれど、まずもって政府による声明がまったくないことが挙げられる。安倍元総理の時には学校を休校にしたりマスクや10万円を配ったりしていた。あれらの政策は政策の是非云々を別にして声明としては機能していたのだと思う。学校を突然休校にするのは愚策であると当時は言われたものであるが、「愚策を打たざるを得ないほどの状態であること」は国民に伝わっていた。アベノマスクにしても今や笑い種となっているけど、アベノマスクの無意味さとは別にして「政府が右往左往しているという危機感」は伝わってきた。10万円渡されたから自粛しようと考えた人も大勢いたはずだ。
転じるに今の菅政権からはそういった声明が見えてこない。演説の不備を筆頭に政策に関してもお願いベースの自粛要請に徹し、危機意識が伝わってこない。コロナが蔓延してから今が最悪の状態でありながらそれにたいする危機意識が共有されていないのは驚くべき事態であろう。危機感に関する議論は国民の意識の問題として扱われ「コロナに慣れたからみな自粛しなくなっている」というのが主流意見であるが、個人的にはそうではないと思っている。政府が危機意識を共有しないことで国民の行動が奔放になっている側面は多分にあるだろう。政策として間違ったことをしても国民と危機意識を共有すべきであるが、現状、緊急事態宣言を出してあとはほとんど何もしていない。

危機意識を共有しないのであれば感染が拡大することを想定してPCR検査の体制を拡充したり仮設の病棟を用意したりすべきであったがどうもそういうわけでもなさそうである。現状ほとんど何もしていない。国民に自粛をお願いし、医療従事者には頑張ってもらうという体制に限界がくるのはほとんど自明であったはずだ。各病院にたいして病床の増設を要請しているみたいではあるが、それとは別にNYがそうしたように病院外に患者をまとめるための仮設病棟をつくっても良いはずである。廃校や使われていない公営住宅、選手村などを接収して仮設病棟にし、自衛隊を派遣するなどいろいろやりかたはあるはずだ。保健所の事務処理能力を超え、患者が救急搬送することもできない状態であれば「準医療とでも言うべきケア業務」を医療の外に外注するしかない。しかしやらない。みな自宅で苦しんでいる。


このような状態にあってフジロックがどうこう言うのは些末に過ぎるような気がしている。政府が「自粛しろと言っていない」のだから多くの人は自粛しない。それ以上でもそれ以下でもないのだろう。

反政府、反権力、反知性という議論よりも単に政治が機能していないという大きな議論で見たほうがむしろ的を射ているのではないだろうか。個別のケースにたいして個々人の倫理観・政治性を問うたところで憂さを晴らす以上の意味はないように思う。五輪に反対してフジロックに賛成するのはダブスタであると言うけれどアーティストにとってはスポーツよりも音楽のほうが大切であるのでまったく矛盾しない。

人は別に政治性だけで生きているわけではない。それぞれに大切なものがある。コロナが多少拡大しようともフジロックに出演するほうが大切だと言うのはエゴに見えるかもしれないけれど「それが当人にとってどれほど大切なエゴであるか」をこちら側で推量することは到底できない。それでもなお自粛させたいのであれば個人の倫理観に訴えるのではなく補償を支払ってしかるべきだろう。

ましてや政治的なコレクトネスで自粛することは(みんなもう忘れてしまったかもしれないが)元来とても高潔な態度であるのだ。すべてが政治的なものとなってしまった今やそんなことは忘れてしまったかもしれない。しかし音楽も居酒屋もパチンコ店も本来政治的なものではない。それを今一度確認すべきではないだろうか。
こうした状況を生み出しているのは政府が政治を行わず、すべての政治的責任を個々人に帰着させていること、すなわち政治的個人主義がある。個人の政治性があらゆる場面で試され、ポリコレにもとづくキャンセルカルチャーに晒されている現状をフジロックはよく表していると思う。個人はそれほど政治的な存在ではない。エゴがあり、執着がある。それにたいして逐一政治性を杓子定規として持ち出し判断することは、端的に言って「オーバーポリティクス」とでも呼ぶべきものであろう。

個人にたいしてオーバーポリティクスを適用し、政府が政治をやらず、個々人の政治性に任されている現状はかなり歪んでいる。それはフジロックに限ったことではない。僕達はいまや日常のあらゆる場面で政治性によって切り取られ、腑分けされている。ハラスメント、差別、男女、年齢などなど。いまや政治的な物事はないとすら言ってもいい。

そのような世界の例に漏れず、フジロックにも政治性が付与された。政治外の「人間」を想像せず、すべてを政治性に晒していき、政治性が人間観そのものを飲み込むようになってしまった。それが政治性の氾濫であり、オーバーポリティクスであるのだ。ここ数年間で僕達はそうした議論の方法に慣れ過ぎてしまった。コロナによってすべての行動が政治的なものとなってしまったからだ。飲みに行くことさえもいまや政治的な行動として判断される。ライブもそうなのだろう。
しかし音楽が政治性「のみ」によって判断されることは間違っている。音楽はそこで鳴っているだけであるはずだ。音楽やロックンロールが反政府、反権力、反知性に見えるのはこちら側の視座が「政治的に過ぎる」からだろう。

こうした言説にたいしては「今は有事なのですべてが政治的に判断されるのは妥当だ」と批判されるかもしれないが、上述した通り政府が声明を出さずに今は平時だと事実上言っているのでみな平時として行動しているに過ぎないとも言える。

政府によるステートメントもなく、補償もないまま個々人に政治的責任を帰着させている限り、政治性よりも上位の価値観(音楽をやりたい)を持つ人々はフェスに集まる。政府が機能しないとはつまりそういうことである。人民裁判やオーバーポリティクスによって人間を規定するには限界がある。音楽を聴くためにコロナにかかるリスクをおかす人もいる。考えてみればそれは当然のことなのだ。

 

フジロックに参加することが是か非かみたいな比較論を逐一繰り返し続けてきたのがこの一年半だった。フジロックに参加せず旅行にも行かないで自粛するのが政治的な市民としては完璧に正しい。しかしそう言っている人も必ずそれ以上の価値観を持っている。それを考えれば他者の行動にたいして政治的な比較論で語ること自体がナンセンスと考えるべきだろう。そうした多様な価値観、多様な生のありかたを守ることが自由主義国家たる日本国政府の役目であるはずだが、政府はほとんど何もしていない。そしてすべての政治的責任を個人に帰依させ、我々もそれに従い、SNSを使って個人の政治的正しさ比較し始めている。誰が政治的に正しいのか、誰がダブスタではないのかという具合に。そうした状況で自治政府がネット上に生まれ、我々全員がそれに加担してしまっている。政府が機能しないのであれば我々が自治するしかない、という具合に政府への信頼の無さが憂国感情を生み出し、人民裁判を許してしまっている。反政権であるリベラル勢力がキャンセルカルチャーに腐心しているのは偶然ではない。政府への信頼がないから自治を始めるしかない。そして自治ゆえに排外主義、キャンセルカルチャーが影響力を持つ。そのような状態はもやは脱しなければならないだろう。
結論としては次の選挙はちゃんと投票に行こう。これ以上我々個人が剥き出しの政治性に晒されないために、である。