メロンダウト

メロンについて考えるよ

日本には政治と経営があっても経済がない

もう「経済」が消えてしまったのかもしれない。
自分は経済学部出身ながら長年の労働によりそのほとんどを忘れてしまったわけであるが記憶の片隅から引っ張り出して書いていこうと思う。日本には政治と経営があっても経済がない。それが多くの問題に通底しているように思うからだ。
 
※かなりの長文(8000文字以上)のため、めずらしく目次をつけました。
 
波頭さんが介護士の給料を月額で一律10万円引き上げるように提言されていた。正しい提言だと思う一方、これは政治と経営でしか経済を語れなくなった現状を示しているのではないだろうか。

はじめに

よく経済効率が悪しきものとして取り沙汰されるけれどこれには違和感を覚えてしまう。
経済学はその響きとは裏腹にかなり抽象度が高いもので学問的にも科学なのか人文なのかあやふやなところがある。需給曲線、労働分配率、NNP、マネーサプライ、限界消費性向やらなんやらかんやら計量経済学と呼ばれるものももちろん経済学の範疇である。一方、経済とはつまり人心であると言う論者もいたりして最も多岐にわたりかねない学問だったりする。たとえばアダムスミスが提唱した神の見えざる手にたいし、ケインズは神の見えざる手が機能するには人々が公徳心を持つ必要があると書いている。市場経済における均衡価格がそのまま適正価格となるかどうかは直観的にも疑問を持つ人が多いのではないだろうか。実際、均衡価格なんていっても市場が独占されれば供給曲線はゆがみ、適正とは言えない価格で流通している商品が数多くある。そうした市場に抗うため(正しい需要曲線を描くため)に人々が価格水準を公的に捉える必要がある。その公徳的経済心をみんなが持ってこそ均衡価格は適正価格に近付くという「人文的要素」を経済学は含んでいる。
他にも、古典派経済学では人々が合理的な経済活動を行うとして捉える一方、近年では行動経済学などにより人々が認知バイアスヒューリスティックを持つ非合理な存在として捉え返すのが主流である。人間が合理か非合理かは議論があるけれど、なにを合理とするかはつまり人々が何を選好するかの問題でもあって、そこに道徳が絡んでくる点で経済学は人文学の領域だと言える。
経済とは何かを買う、何かを買わないという選択である限り、そこには人心が含まれており人心のない経済は市場効率に侵されていってしまう。その市場効率と、そして市場を修正する政治だけが残った。それが今の状態のように思うのだ。そこにありうべき道徳が介在できなくなっている。
 
介護士の給料の件で言えば介護士の給料をあげることが公徳心にかなうものだとみなが考えていれば介護に捻出する費用も増え、介護士の給料も上がり、適正な価格に近付いていく。しかし今はそうではない。個人主義化した社会にあっては遠方にいる親にたいし政治が費用を捻出してくれれば良いと僕達が「思っているから」だ。
経済観念が合理性に変換されてしまっているので「価格が均衡しないのであれば政治が介入すべき」という視座しか僕達は持ちえていない。しかし本来はそうではない。介護士の給料が適正でないのであれば適正になるよう需要曲線をスライドさせる必要が、まずある。親の介護という重要な仕事をしてくれる事業者にたいしては相応の額を支払うという市場の合意があれば介護士の給料も上がり、介護に従事する人も増える。
介護にたいし給料をもっと支払うべきだという「道徳的経済観念」こそが必要とされているのだけど、経営か政治かという二択になっている状態こそが今の社会を端的に表しているように思う。高く売って安く買えれば良い、だけが経済ではない。安く買って良いのかという道徳こそが重要なのだ。
 

ナョナリズムが消えグローバリズムが生活になった

経済的道徳がなにかと言えばそのひとつにナショナリズムがある。
たとえば関税だ。関税をかけることは国内経済を守るためであるけれど、僕達がなぜ国内経済を守る政策をとっているかといえば愛国心を持っているからである。しかしグローバリズムが席捲すると国内経済を守る人心は失われた。日本国民でありながらiphoneを使い、amazonで商品を注文し、Uberで出前を頼み、tiktokを楽しむ。そうした生活様式にいささかの疑問も持たないぐらいには、経済におけるナショナリズムは失われている。
国内経済を守ることに関しては、諸外国に比べ日本は特に関心が薄いように思う。アメリカがhuwaeiを締め出そうとしたり、中国が国内企業のプラットフォームを優先的に採用したり、ヨーロッパがAppleに莫大な課税をしたり諸外国では経済的ナショナリズムがまだ生きている。それに比べると日本は数年前までAmazonの売上高すらよくわかっていなかったぐらい市場を放任している。
そのような市場のグローバル化と連動してTPPやFDAなどの自由貿易が盛んになっていった。日本がTPPに参加すべきかどうかが議論されていた時には宇沢弘文さんや中野剛志さんを筆頭にまだナショナリズムが語られていた。しかしここ数年で急速に海外のプラットフォーマーが市場を席捲し、Amazonなどがインフラ化した結果、みなグローバリズムを完全に内面化してしまったのだろう。その結果ナショナリズムを語る土壌は失われることになった。Amazonを使いながらナショナリズムを語るという矛盾を引き受けて言論を展開できる人は多くない。みな生活が先にあり、その生活がグローバリズムによって支えられていると知れば人心や道徳もグローバリズムと一体化するようになる。グローバリズムはもはやナショナリズムと対置する概念ではなく、生活そのものであるのだ。
 
そのような生活の中でナショナリズムを展開することは条件的に不可能になった。
 
人々の生活様式が変われば人心も変わる。そして人心が変われば経済構造が変わる。最近で言えばSDGsや脱炭素に取り組む企業への投資が盛んなのも人心が変わったからだと言える。つまるところ人心が経済をつくるわけだが
しかし今、人々は経済的な意味において道徳を持ち得なくなっている。道徳の個人化と言ってもいい。多様性のもとに人々の道徳はバラバラに発散しているので経済的な影響力を持ちえなくなった。経済的な合意を調達することはもはや不可能なので誰もやっていない。企業はグローバル市場でいかに戦うか、個人はいかに合理的に振る舞い利得を最大化するか、そして道徳はSDGsなど地球規模のものだけが残った。概観するにそれが今の経済なのであろう。
そして最終的に経済と道徳は切り分けられ、人々の消費行動や生産活動は自由市場でいかに効率よく振る舞うかしか言われることはなくなった。その結果生じた問題について考えるのは政治の仕事だという経済観しか僕達は持っていない。
しかしそもそも財政政策や金融政策といった政治にできることはカンフル剤のようなものであって、市場構造まで変化させるものではない。
政治が金融市場に介入し、適正な価格になるよう誘導したとしてもそれは実体経済に波及しないというのがアベノミクスの結果だった。アベノミクスが間違っていたと言いたいわけではない。ただ、政治と経済はイコールではない。「正しい市場」を仮につくろうとするのであればケインズが言っていたように人々が公徳心を持つ必要がある。つまるところ政治や合理性で捉えきれないものを道徳的にまかなうという心性こそが経済学の肝であるのだ。
 
ナショナリズムなどの道徳が影響力を持ちえないからこそ経済活動が究極の合理性であるグローバリズムに支配されてしまったのがここ数年の経済の変遷だと言える。国家や個人の経済的道徳はもはや条件的にも実効的にも、そして動機としても存在しえない。ゆえにSDGsヴィーガンロハスのようなユニバーサルなものだけを道徳と呼ぶようになった。
言い換えれば経済格差が尋常ではないものになり、富裕層が提唱する道徳だけが経済的に機能する道徳的独裁体制になったとも言える。消費者として正しい消費をしたところでもはや意味がないのも事実ではある。
いずれにせよ僕達が市場をコントロールするために道徳を持ち経済活動を行うという考えはいまや動機としても持ちようがないし、実効的にもほとんど無意味な世界になっている。ステークホルダープラットフォーマーだけが道徳を唱える意味がある世界で、公徳的経済心と言ってもいささかむなしく響いてしまう。
 
 

サブプライムローンを捉え返す

このような状況を打破するヒントになるのがサブプライムローンだったように思う。
サブプライムローン低所得者向け住宅ローンのことで住宅ローンを貸し付けた銀行がRMBS(住宅モーゲージ担保証券)を発行する会社(当時のファニーメイ等)に債権を委譲し、CDO証券化商品)となったRMBSを最終的に保有していた欧米の金融機関が貸し倒れのリスクを抱えることになり、金融危機を招いたという経緯だった。
サブプライムローン金融危機を招いた悪しき歴史として知られているけれど別の側面があった。結果的には失敗したわけだがつまり低所得者に本来返済不可能なローンを組ませ住宅を与えるという弱者救済でもあったのだ。当時のアメリカは経済成長の最中にあり、住宅価格があがるという試算から低所得者にもステップアップ型償還という年々利率が上がるローンを組ませて住宅の購入をすすめていた。簡単に言えばバブルにあった。その目論見は外れ返済不可能な債務者を量産することになりそのツケをRMBSの保持者、つまり大手の金融機関やそれらを救済する政府が払うことになった。言い換えれば「低所得者向けの住宅のツケを市場や政府が支払った」というそれだけで見れば道徳的なものだったのである。もちろんだからと言ってサブプライムローンをもう一度始めようとは言えないけれど、低所得者に金を貸して住宅を購入させるという一見無謀に見えるこの政策からポジティブに学ぶこともあるのではないだろうか。
 
本来の経済は適切な経済活動を行い、インフレターゲットを設置し、デュープロセスに則った生産活動をみながしていくという暗黙の合意がある。そうした中、そんなめんどくさい経済活動はやめて一足飛びで低所得者にも住宅を与えれば良いという爆薬がサブプライムローンであった。サブプライムローンという本来の経済活動から乖離した負債は金利として未来に委ね、経済全体でそれを償還してしまえば良いとアメリカ経済は考えた。それは結果的に失敗した。しかしそれでもなお道徳的には正しかったのである。低所得者にも住宅を購入できるようにするという政策は道徳的に正しい。誰であれそう思うであろう。生活を守るために市場があるのであって市場を守るために国民がいるのではない。それがいつのまにか市場を守らなければ経済を守れないという具合に人心が逆転し、経済という言葉の意味がスライドしてしまったのである。その結果、経済効率が合理性に変換され、道徳が介在する余地がなくなった。市場に国民の居場所が失われ、市場を守らなければ経済は守れないという「逆説のほうが経済と呼ばれるようになった」のである。そうした「人心の結果として」政府は市場を守ることを優先し、金融バブルとなった。
 
そしてアメリカはサブプライムローンのようなドラスティックな弱者救済をやめ、弱者を弱者として温存した結果、後のオキュパイウォールストリートなどの運動に発展することになる。サブプライムローン以前は金融市場が国民の為のものでもあった。それがいつしか国民と市場が分離し、市場がキャピタリストと大企業及びステークホルダーものに成り下がってしまったのである。r>gというピケティの図式はこうした歴史に依拠している。サブプライムローン以降、労働者と市場が分離し、労働者に市場の恩恵が降りてこなくなった。そのため労働分配率が下がり、資本収益率のほうが高くなった。ようするにアメリカではサブプライムローンを契機に市場が富裕層の私腹を肥やすだけのものとなったため抗議活動に発展したという文脈がある。
 

総量規制という緊縮

こうした現象は日本でも同様のことがあった。総量規制がそれにあたる。総量規制とは多重債務者を救済するために借入金額の合計を制限したものであった。借入限度額に達すると借入が不可能になるという一見すると弱者救済に見える政策だったが、別の側面にも注意するべきである。
総量規制とはようするに弱者救済という名目のもと金融市場にその影響が波及しないよう実体経済のレートを下げたとも言えるのだ。
総量規制以前は消費者金融から多額の金を借りることができた。それを元手に成功する人と失敗する人に分かれる。起業などで成功した人は新興富裕層となり自適に暮らすけれど失敗した人は返済不可能な借金を抱えることになり自己破産に至る。そして自己破産した人のツケを最終的に市場や政府が支払う。弱者内で成功する人と失敗する人の両方が出てくることで結果的に弱者を減らすことに寄与していたと見ることもできるのである。そうした「弱者内の格差」を総量規制により均した結果何が起きたかと言えば誰も抜きんでて成功することがなくなると同時に返済不可能な借金を抱える人もいなくなった。その結果、弱者は市場にたいしなんらの影響力を持たなくなり市場は適正に回っているかのように見せかけることが可能になった。それを象徴するのがアベノミクスだったのであろう。
 

経済は美しさで回らない

こうした弱者を弱者のまま温存する経済観念や、「借金は悪いものだ」という価値観を人々がそのまま内面化した結果、当然ながらデフレになった。個人の金融資産が2000兆円を超える日本にあって経済的不況が続いているのは「みなお金を使わなくなった、使えなくなった」のが最も大きい理由であるが、明らかにそれは人心の問題でもあるのだ。
総量規制により実体経済流動性(マネーサプライ)を下げた結果、「困窮しても借金することはできない」という生活が始まり、いかに貯蓄に回すかという人心が支配的になった。みなもう借金というブレイクスルーがないことを知っているのである。借金しないことは「賢明な経済観念」として信奉されているが、マクロで見れば借金できないことがすなわち貨幣の流動性を下げ「生活のレート」を下げることになる。
こうした賢明さは理念的には「平等」と言われることが多い。誰もが平等に安心して暮らせる社会は美談として語られるけれど、逆を言えば平等な社会にあって困窮することは自己責任だというスティグマを強化することにもなる。そしてそのスティグマもまた人心として機能することで貯蓄が加速する。平等、スティグマ、自己責任という道徳により経済が閉じていきみなが合理的な経済活動をし始めるようになれば古典派経済学の世界、労働者が奴隷と言われていたマルクスの時代に帰ることになってしまうのである。
美しき理念が結果的に人々の生活をそのまま温存することになり「経済が失われた」。それが日本経済であるように思う。
 
そして今、サブプライムローン後のアメリカのように日本でも弱者は弱者として弱者らしい生活を余儀なくされるようになった。コンビニや牛丼屋など弱者らしい生活をおくるためのサービスが出てきたのも機を一にしている。その後に関しては言うまでもない。アベノミクスによる金融バブルにあってもトリクルダウンは起きず弱者は弱者として温存されたままである。格差の固定化という昨今しきりに言われているものはこうした政策の結果でもあるのだ。
 

市場を犠牲にするという方法論

このような文脈で考えればサブプライムローンがいくらかポジティブなものだったと考えることができるのではないだろうか。
サブプライムローンではベアスターンズをはじめとした大手の金融機関が確かに破綻した。世界的に不況になり甚大な被害をこうむる形となった。しかしながら言ってしまえばそれだけだったとも言えるのだ。実際、サブプライムローンを支払えなくなり破綻したRMBSは全体の20%程度であった。実相としてはサブプライムローンは成功したとも言える。ただサブプライムローンに投資していた金融機関が破綻したことで住宅バブルは終わったという見方が強まり連鎖的な不安を招いた。ようするにこれも人心の話なのだ。連鎖的な不安により市場から投資金を引き上げる企業が多かったため、結果的に金融危機を招いたものの、これを政策の失敗として実体経済と市場を切り離したことは愚策であったとも言える。
というよりも金融市場を犠牲にして弱者を救済するというのはある意味では正しいのである。
前提として政府は国民の生活を守る義務があるものの、何億という人口を個別に捕捉して救済することはほとんど不可能である。そうした条件下にあってはまず経済で弱者を救うことが重要になる。経済で救えなかった弱者を政府が救済するほうが理路としては正しい。借金やローンのような施策で実体経済のレートを上げ、労働者でも資産を運用できるようにすれば自力救済に至る人々も数多くいる。あるいは逆に多重債務に陥り、これ以上どうしようもないという状況になれば助けを求めるしかなくなり政府が捕捉できる可能性も上がる。もしくはサブプライムローンのように負債をひとところにまとめていれば政府は「単に市場を救済すれば良い」だけになる。そして最も重要なことが、そうした経済圏であれば人々がリスクを取れるようになる。つまり人心が生まれる。その結果インフレに転化し、政府の歳入も増え、豊かになる。経済が機能するとはそういうことであり、市場=経済であるという経済観は明らかに間違っている。無論、サブプライムローンのようにやりすぎれば金融危機になる。しかし同時にそれを恐れてもいけないのだ。そうしたバランシングが正しい経済観念だと言える。
 

経済学が閉じている

しかしながら今、経済と言えば株価であり市場であるという具合に経済学が閉じてしまっているのだ。経済とは人心をつくることが最も重要なことであり、それは政策的にも実行可能であるはずだが、そうした言説はいまや言われることすらない。
当然ではある。人心を形成するメディアもまた市場の恩恵にあずかっており、ステークホルダーや政治家及び大企業に就職できる可能性のある若者といった市場の恩恵にあずかれる人々は市場を守ることが自らが豊かになることであるからだ。そのような人々の言説が国民の経済観念までつくっているのだからタチが悪い。彼らには彼らの経済圏があり、それを守る動機があるゆえに市場を徹底的に守り、サブプライムローンのような不確定リスクを排除しようと努めている。そうしてできた既得権にへばりついているのが日本経済を貫いている人心だと言える。
 
しかし経済学は本来、そんなせせこましい合理性ではない。正しい経済観念とはつまり「金を貸せ、話はそれからだ」のほうである。
以上のように人々の自由を守ることで経済を守ることができると書いていたのがハイエクだったように記憶しているが、なにぶん昔に読んだ程度なので仔細までは覚えていない。それでも今の経済を取り巻く人心がいかに不自由なものか、ということは直感的にもわかることではないだろうか。マクロでは管理主義、集産主義が敷かれミクロでは個人主義、合理主義が支配的になった経済圏にあってもはや僕達は「自由な経済活動」を行えるだけの人心を持っていないのだ。
一部の人々が豊かになるのではなく国民がリスクを取れるようになり、政府がそれを救済するという当たり前の経済を取り戻すべきであろう。もちろんそれを方法論として実装するのは極めて困難であるものの、そもそも経済が向いている方向が違うのではないか、あるいは経済という言葉の意味が変質してしまったのではないか、ということを書きたくてこんな長文になってしまった。
 
最後まで読んでくれた方、ありがとうございます。