メロンダウト

メロンについて考えるよ

批判なき政府、批判なき五輪、批判なき藁人形論法

こちらのツイート

 

及びツイートに言及されていたwattoさんの記事

www.watto.nagoya

 

これらを読んで、何か、我が国の政治にはもっと根源的な病理が潜んでいるような気がしてきた。

冒頭のツイートの「決断をしたくないだけ」という部分はまさにその通りで、政権はもうずいぶん前から「批判なき政治」によって動いている。

例をあげれば無数に出てくるけれど、代表的なものが前首相である安倍晋三氏の虚偽答弁や基幹統計の改竄及び隠蔽が挙げられるであろう。桜を見る会の領収書や反社会勢力が出席していたかの議論もそうであった。森友加計問題なども典型的である。野党や国民が批判しうる統計、データ、領収書を抹消することによって議論ができない状態とし、批判から逃げ続けてきたのが自民政権の内実といったところであろう。

ようするに無謬でありつづけるために事前のセキュリティーに躍起になっているのが自民政権のそれであった。

思い返すに、このような「態度」は何年も前から顕在化していたのである。今井絵理子氏がものすごく素朴に「批判なき政治」と発言したことがあった。あれは何かの冗談だと当時は思ったものだけれど、今となってみれば、自民政権の態度を如実に表しているものだった。とにかく批判を回避するためであればなんでもする。批判なき政治でありつづけるために統計も改竄するし虚偽答弁もする。政権の行動原理は民主主義ではなく批判なきこと、つまり無謬性に完全に依ってしまっていると、もはや断じてしまって良いであろう。

 

それは今般のオリンピックにおける騒動にも表れている。wattoさんが言及していたように、もはや担当大臣ですら責任者を有耶無耶にするといった形で「批判なき政治」を行っている。

いっぽうで誰がブレーキを踏むのか、あるいは誰がハンドルを握っているのかというと、昨今メディアが伝える情報はこんなのばかりだ。

丸川氏「東京都の考えがまったく聞こえない」五輪医療体制で苦言 | 毎日新聞

 

 

政権が批判を回避しつづけているという「事実」はもはや語るべくもないのであるが、その背景には何があるのかということもすこし考えてみたい。

結論から言えば、こういった政権の行動を暗に支持しているのは、逆説的に今のリベラルだと考えられる。自民党が保守かリベラルかといった右左の枠組みは別に議論があるにせよ、現行、今の社会において支配的なのはリベラル的規範であることは疑いようがない。リベラルはリベラルとして政権を批判する。その批判の作法がピーキーになればなるほどに政権はいかなる間違いをも許されなくなる。そのピーキーさ、神経症的批判が高じると、批判を受ける側もそのピーキーさに付き合わなければならなくなる。たとえば女性に言及した瞬間に批判が飛んでくるようになれば女性に言及すること自体をやめることになる。あらゆる発言に批判がついてまわるようになれば政治的発言の一切をやめ、同時に責任の行方すらも煙に巻くことが「政治的対応として正しい」ということになってしまう。

ゆえん批判というやつは厄介で、批判された側は批判された相手を総体としてとらえてしまう。こういった批判があるのだから、こういった発言も批判されるだろう、あるいはこういう批判もあるかもしれないと想像し、そのすべてを回避するようになる。今の自民党の無謬性もそういった構造に立脚していると言えるであろう。「総体としてのリベラル」はどんな些細な発言でも批判してくる極左集団に見えていても不思議ではない。そのような市民にたいして対応するには「無垢である」ことしか手段はなく、無垢で無謬な政権であることを証明し続ける限りにおいて批判を回避することができる。つまるところ「批判なき政治」とは現在の政治勢力及び市民社会を勘案した方程式における「解答」なのである。

 

このような観点から見るに、現行、今の政治を動かしているのはリベラルであり、旧来の右左といった思想的対立では説明できなくなっている。批判する側と批判を回避する側という、幼稚で、短絡的とも言えるただの行動原理によって動いていると見て差し支えないであろう。自民党は保守政権と言われていたけれど、もはや保守すべきものを保守してはいない。リベラルの顔色を伺い、びびっている風見鶏政権。それが安倍長期政権を見てきたすえの僕の解答である。この国は市民社会も政権も無謬性を頼りにしてしか発言できなくなってしまった。

 

あらゆるところで指摘されていることだが、ようするに「正しいこと」しか言えない社会になりつつある。そのような障壁がありとあらゆるところにたちはだかっている。それは政治の現場においても例外ではない。それが今般のオリンピック騒動によって顕在化した最たるものだと言えるだろう。

コロナとオリンピックは言うまでもなくトレードオフの関係であり、オリンピックを強行すればコロナが広がり、コロナを抑えようと思えばオリンピックをやめるか規模を縮小するしかない。そこに無謬でいられる余地はない。政治的決断が迫られる局面となっているが、自民政権は上述したように無謬性によってしかその行動を決められないので「困っている」と見るのが正確であろう。ただ単に困っているのである。東京都も自民党も責任者すらわからないで困っている。

 

こういった事態にたいして不思議なのは、当の選手達がオリンピックの政治的判断について言及しないことだと思っている。個々人が発言しないことをもって批判するのは無理筋な議論に思われるかもしれないが、当事者たる選手達が批判を回避する無謬性に依っているのだから政府が決断できないのも無理からぬことである。

当の選手達がオリンピックの政治的判断について言及していないので、「選手達の声が聞こえてこないのでコロナの状況を鑑みて五輪はやめることにしました」と決定することも不可能ではない。しかしながら、そうすると選手達の気持ちを勝手に想像して政権を批判する勢力が出てくるので無謬政権としては八方塞がりとなっている。

選手にたいしてこうした書き方をすると藁人形論法であるという批判が必ずくるのであるが、当事者がみな藁人形となって批判を回避している状態こそがまさに問題なのである。

みな藁人形になるしかなくなっている。何かに言及したり、政治的発言をした瞬間に藁人形ではなくなり、藁人形論法で回避できなくなるので藁人形でいるしかなくなっている。そのような事態がまさに、政権の問題でもあり、五輪の問題でもあり、そして政治を取り巻く社会の問題でもある。藁人形たるモブであることが無垢な存在として自由でいられるという身も蓋もない話になっているのだ。

 

このようなことを書いても五輪は「流れ」で開催するのであろうし、無謬の市民及び無謬の政府をつくっているピーキーなリベラルの批判、及びそれに連関した政治的構造は何も変わらない。

言い換えれば、学校などの教育現場で誰も手を挙げて答えることがない日本の原風景そのものだとも言える。