あけましておめでとうございます。本年もつらつらと書いていきます。
コロナに関しては医療崩壊待ったなしの状態だけども、政治の崩壊がここまでひどいことになるとは思ってなかったのではないだろうか。
安倍政権が幾分ましに見えるほどの無謬政権である。
直近で話題になっている緊急事態宣言の是非についてはかなり難しい判断なので一概に出さないからと批判できるものではないと思っているけれど、緊急事態宣言云々を抜きにしてもあまりにも無策すぎる。
政策に関してもいろいろ批判すべき点はあってこれまでも書いてきたけれど、ウィルスと経済と医療と国民生活のバランスを組んで予算を振り分けるのは初めての事態なので政策に関する多少の失敗はまだ許容できる。アベノマスクにしても当時のマスク騒動からすれば「なくはない」政策と考えることも、まあできなくはない。なので政策に関する批判は置いておくけれど
それよりもなによりも首相からなんのメッセージも発信されないことに驚愕している。
「ただ言うだけでいい」のに何も言わずに記者クラブで固めて定型質問にだけ答えて終了という、この緊急事態下においても通常運転の答弁しかしていない。国のトップが会見を開き、国の現状を説明して国民に訴えることによる効果は思いのほか強く何十億と予算を組むよりも有効たりえたりする。世界中ではイギリスのジョンソン首相、ドイツのメルケル首相、ニューヨークの市長が演説で緊急事態だと説明していたけれど、安倍も菅もそういった「演説」はやってこなかった。会見での「朗読」は行っていたが演説は聞いたことがない。個別の政策に関する議論は別にあるにせよ、演説を行わないこと、それだけは確実に批判すべき失策だと言える。
演説の重要性を考えるに今現在、喫緊で問題になっているのは国民の危機感の欠如に他ならないからだ。みんなコロナに慣れてしまっている。ソーシャルディスタンスを守る人も目に見えて減ってきている。どのような予算を組んでも国民が危機意識を持たない限りは感染を抑えることはできない。何兆円と医療機関に給付しようともすべて水泡に帰してしまう。だから首相がメッセージを発して危機意識を共有する必要が出てくる。
政策と国民の危機意識は今回のような事態においては両輪として備わっていなければならない。4月の緊急事態宣言ではその両輪が機能したから感染が減少に転じた。しかし今回は危機意識の共有があまりにもずさんというか、何もしてない。
緊急事態宣言は危機意識の徹底という手法なわけだけど、その前に首相がメッセージを発して「今は疑似的な戦時にある」とか「このままいけば東日本大震災の死者数を超えることは確実です」とか「すでにアメリカでは大戦時の死者数を超えています」とか「医療体制はすでに限界であなたを治療するところはすでにありません」など言えばいい。タダなんだから。予算を組む必要もない。
政策に何百億と予算を投じるよりも感染者数を抑える効果がある演説を首相が行わないのははっきり無能と言ってよいものだろう。首相が演説を行わないせいで無駄に感染者を出し、その結果無駄になった予算は何百億とあるはずである。その点では小池都知事はまだ危機意識の共有をしようとしているぶん評価できる。ガースーは駄目だ。何もしない。間違ったこともしない結果最悪の間違いをしている点で安倍政権よりもすでにひどい。安倍政権は突然学校を休校にしたりと政策的には当然支持できるものではなかったが、危機意識を国民と共有しようといった「姿勢」だけはあった。演説はしていなかったが。しかしガースーは演説はおろか姿勢すら見えてこない。
そもそも呑気にステーキ食べて会食している点で共有しうる危機意識すら持っていない可能性もあるけれど。
記事の本題は以上で、以下なんでこんなことになっているのかの考察になります。
ここまで「何も言わない」首相はかつていなかった。間違う可能性のある言動、批判されうる言動を徹底的に回避してきたのは安倍政権からのもので、このブログでは無謬と書いて批判してきたけれど、政治家がここまで案山子化したのはかなりいろいろな要因があるように思えてくる。
まずは上にも書いたように記者クラブで固めた記者会見のありかただろう。主要メディアの記者で囲んで会見しているせいか、記者会見が予見可能な質問にたいする回答といった形式でしかなくなっている。言ってしまえばツイッターのリプライと同じでしかない。質問がきたなかから選別して答えを出して嫌な質問をしてくる記者にたいしてはツイッターでブロックするように記者クラブから追い出す。良いフォロワーを集めたら良いタイムラインができあがりましたと。こんなことを何十年も前からやっているのだから首相に演説能力がなくなるのも無理からぬというところでしょう。
あとは無謬性こそがネット社会の正しさとなっている点についても言及しておきたい。政治の無謬性について批判的に書いているのだけど、実際、社会に目を移したときに「何も言わないことが最も正しい」というのは間違っていないとも思っている。最近のお母さん食堂が炎上している件についてもそうだけれど、言葉の性質そのものを拡大解釈して批判されたり文脈をすっとばされて文章を読む人がいたり、ニュースメディアでの切り取りもなにもかもすべての言葉は批判可能ですべての言葉が間違う可能性を持ってしまった。何を言っても危険な社会において最も批判にさらされやすい政治家が何も言わないというのは戦略上正しくなってしまっていて、今の社会と政治にはかなりの相関関係があると思っている。正しさの軸足が正しさを実行する人ではなくなってて被害者やマイノリティーといった正しいポジションにいる人が正しいとなってしまっていて、思考様式の変容まで考えないとこの問題は当分解決しないとは思っている。なので政治家が何も言わないのは今の社会が抱える構造そのものに「依拠」しているように見えなくもない。
最後に供託金についてだけど、ガースーにしても二階にしても麻生にしても国のトップが二十年前からほとんど変わっていないのは市井の人間が政治に参加できないからであろう。その政治参加の最大の障害となっているのが供託金だと考えられる。それは女性の政治参画についての記事でも書いた通りで以下ほとんど過去記事の引用で終わりたいのだけど
ジェンダーギャップ指数と供託金の関係および男女平等にたいする所感 - メロンダウト
女性の政治進出(一般男性の政治進出)で具体的に問題なのは供託金のほうでしょう。
ジェンダーギャップ指数の順位が良い国では供託金がないかもしくは日本よりものすごく安い。
アメリカ、フランス、ドイツ、イタリアは供託金が0。
供託金がある国でもイギリスは9万円、カナダが7万円 オーストラリア5万円、オーストラリア2万5千円、インド2万5千円で普通の人が支払える金額となっている。
ジェンダーギャップ指数が日本と同じくらい低い韓国が150万。
日本は突出して高く比例で600万、小選挙区で300万と馬鹿げた金額が必要とされる。
日本では性別関係なく出馬するのにハードルが高すぎる。なので政治的な地盤を持つ人間が供託金をペイできる想定のもとでしか選挙に出馬しない。女性のほうが既存の政治家が少なく地縁を持たないし経済力もないのでそもそも出馬すること自体が他国に比べて極端に難しい。しかしそれは女性に限った問題ではない。男性が抱える問題でもある。その結果、女性政治家および女性閣僚の数などが他国に比べて低い。安倍も鳩山も他の族議員も二世だらけで新しく政治に参加して権力を持つことは男性にとっても極端に難しい。
ようするに優秀な人が政治家になるのは供託金や政党政治のせいで日本では極端に難しく、今の政治家は選挙地盤を持っているので間違ったことさえしなければ当選する構造になっている。ガースーのような歴が長い政治家ほどその無謬性に支配されやすいという当たり前の保身なんですよね。
労働するよりも部屋にこもって投資したほうが儲かると、r>gとピケティが書いてましたけど、政治でも資産総額が一定程度超えると政治家は部屋に閉じこもりはじめるようになる。21世紀の資本ならぬ21世紀の政治もそんなようなものなのかもしれません。