メロンダウト

メロンについて考えるよ

憎悪扇動罪というよりもSNS自体を規制する動きがそのうち出てくると思う

数日前、憎悪扇動罪というアイデアを提起した立憲民主党所属の区議会議員が話題になっていた。

togetter.com

 
憎悪扇動罪というとディストピア感があり案の定批判されているけど、社会のトレンドとしては悪意を失くす方向に向かっているのは間違いないようにも思う。侮辱罪やポリコレにヘイトスピーチ規制法も似たようなものと言えば似たようなもので、誰かを傷つけたり不快にさせることにたいする処罰感情は日に日に大きくなっている。
法的には厳罰化がすすみ、現実にはコンプラやハラスメントを注意するよう要求され、ネット上の誹謗中傷に関しても裁判沙汰になるのはもはや珍しくない。それぞれを取り出してみれば社会は良くなっていると言えるものの、悪意を取り除いていった結果何がトレードオフとして失われるのかという議論にはあまりならないのも事実である。逆張り的な言説は社会のあるべき言説とは真逆なため、表で言ったりすると社会的信用を失ったりするので多くの人は口を噤む。なのでそうした言説はたとえばIDW(インテレクチュアル・ダーク・ウェブ)のような界隈や居酒屋談義に限定されたものとなっている。表ではみな社会人然とした振る舞いをして、誹謗中傷には反対、コンプラは遵守する。そうした諸々を守ることで表面的には社会は良くなっているというフリをするし実際良くなっているとも感じるが、果たして悪意や憎悪を排除していくことで社会が良くなるなんてそんな単純なことがあるのだろうかとも思ってしまうのである。
 
憎悪扇動罪というとかなり直截的ではあるが、類似する例で言えばコロナ禍でみなが外出を自粛したり、タバコは喫煙所で吸うようにしたり、加害性のあるものを排除しようとする動きは以前からあった。憎悪を排除する社会の趨勢はなにも今に始まったことではない。そのゾーニングの論理がSNSの諸問題に向けられるのは自明であり、その結果出てきたアイデアが憎悪扇動罪なのであろう。リベラル的なコレクトネスに完全適応している人からすれば当然出てくるアイデアに過ぎず、今の社会にあってはむしろ正道な意見にすら見える。というか遅かれ早かれ憎悪を排除・ゾーニングするようなSNS規制論は出てくるはずだ。
 
SNS規制とミニシュパリズム
今のところ憎悪扇動罪は単なるアイデアに過ぎず、皆がSNSを使っている(タバコを吸っている)状態なので反対する人が多いけれど、皆タバコをやめたようにSNSからも離れていきSNSがどうなろうとどうでも良いと考える人が増え、実際に憎悪扇動罪が制定されたりSNSに規制がはいってもおかしくないように思う。僕なんかはツイッターがどうなろうともはやどうでもいいと思っている。将来的にはSNSが現実とまったく同じ場所になりFF外からリプを飛ばしたりすることが加害行為として扱われてもおかしくない。実際、どこの誰かわからない人にいきなり喋りかけるのは加害といえば加害である。今はみなカジュアルにリプを送りあっており、誹謗中傷のような悪意だけが問題視されているが、現実に目を向けてみると客引きなどの声掛けは規制されつつあり、SNSでも声を掛けること自体が規制されてもおかしくはない。また、最近だと強盗事件の実行犯がSNSで集められていた件もあったし、児童ポルノや自殺幇助のような問題もSNSにはある。経済的なフェーズで言っても、ここ数日「ガキがツバつけた寿司」が投稿された件が大炎上しており、スシローの時価総額が170億減少するといった事態になっている。また、政治的にもSNSの有害性は各所で指摘されている。しかしながら今のところそうしたSNSの弊害に関しては使い方やリテラシーの問題として片づけられている。けれど翻って考えるにタバコだって個々のリテラシーがあればそもそもゾーニングをする必要はなかったのだ。
人間は愚かであり、その愚かさに耐えられなくなった時、民主主義を通じ排除するよう統治権力に要求する。かつてタバコに向けられたその眼差しがSNSに向かないわけがないように思う。個人的な感覚で言えば、タバコよりもSNSのほうが使い方によってははるかに有害なのだから。まだ多くの人はSNSの弊害について無自覚なため規制派が多数ではないというだけで、皆がSNSの有害性に気づき始めた時には規制派が民主主義としての多数派になる。その時、民主的な手続きをもってSNSに税金をかけたりするのは現実的に考えられる事態であるように思える。
 
というか実際、ヨーロッパの一部地域では生活世界や共同体を守るためにインターネット上のプラットフォーマーに規制が入っている。市場において新自由主義的に振る舞い人々の生活を追いかけレコメンドで汚染するというようなビジネスモデルに抗する動きがミニシュパリズムのような形で出てきている。SNSはフォロワーを増やすよう人間関係のスケールを求めてくるが、スケールしない人間関係をもとに地域政治への直接的コミットによって共同体を守るという動きがヨーロッパにはある。反スケールもとい反SNSを謳いインターネットの自由市場に抗おうとするのは特別な動きではない。ナチスドイツのような全体主義とSNSの全体性は相似形とも言える点で、全体への警戒感が強いヨーロッパではSNSによって「何かが壊されている」という危機意識があるのだろう。政局的に見ても、日米欧ともに市民の生活を守るべき左派政党が既得権益と手を組み格差を拡大することになっており、そうした政治経済システムにたいして反旗を翻す動きが各国で出現してきた。そうした諸々の政治的な動きも、SNSをはじめとする「生活や人間関係のあり方に侵食する自由主義」へのバックラッシュなのであろう。そしてそれに日本が追従するのもそう遠くないように思う。
 
・新型コロナウィルスと全体主義
もちろんSNSが規制されるのはネットがインフラと化した今の日本では想像することすら難しいかもしれないが、自明だったものが自明ではなくなるということは往々にして起こる。それをみな知っているはずだ。直近で言えばコロナ禍がそうだった。営業の自由・移動の自由・集会結社の自由などが制限され、ただ家にいるだけの生活を皆がおくっていた。自粛警察なども話題になったが、あれらもようするにステイホームしていたかどうかを見張っていた点でゾーニング警察だったのだろう。新型コロナウィルスは多数の死者を出してきた点から医療の問題としてクローズアップされがちであるが、同時に、困難に直面した社会のその全体性がどのような「表情」を持って眼前に迫ってくるのかをも突き付けられた出来事だったのも忘れてはならないはずである。事実上外出することは不可能になり、学校も休校になり、あらゆるイベントは中止になった。命という価値観・生権力が全景化し、営業している店のグーグルレビューは荒らされ、外に出る人は反社会的な人間かのような空気すら当時はあった。そして僕達はそれに抗うことができなかった。社会がパニックに陥った時に民主主義が生み出す社会的圧力は時に抵抗不可能なものとして現前し、僕達の生活を縛り上げてしまったのである。ナチスのような残虐性はなくとも民主主義が時に全体を規定するというのはウィルスひとつからでもわかる教訓なのだ。
無論、自粛が良かったか悪かったという評価に関しては自粛すべきだったと思うが、例外的事態における例外的人間、つまりは自粛しない人のその愚かさを排除しようとした社会的圧力(全体主義性)が尋常ではないものだったのも確かなはずである。その圧力が今度はどこに向かうのかを考えてこそ新型コロナウィルスによって被った犠牲にかなう教訓を得ることができるのではないだろうか、なんてことを思う。
 
ウィルス、タバコ、SNS。なんでもそうだが、どのように物事を捉えているかは人によって千差万別であり、自分が考えていることと社会がすれ違うことはよくある。そして自分と社会が合致しているのだから良い、とはならないしなるべきでもない。あちら側の他者が考えていることが違うのであればそれを尊重しようとしなければならないはずだ。なぜなら次にあちら側に立つかもしれないのは自分だからである。
ゆえんそうした自己と社会のすれ違いに陥り、社会的圧力は無視すれば良いと言う人はコロナの初期にもいた。ウィズコロナで社会を回すべきだという意見だ。しかしながらそうした個人の胆力や主体によって自由を守るというのも難しい話で、社会がある規定を伴ってデザインされた時には個人がどれだけ主体を確保しようとしてもそこには限界があり実質的な自由は奪われてしまう。名目的自由と実質的自由は違うものであり、いくら名目的に人は自由であると言ってもその言葉は宙空に飛んで行ってしまうだけで意味がない。自由であるためには実質を守る必要がやはりあると思う。近年では「道徳」「ただしさ」「命」「被害」のような名目が実質を凌駕する場面を嫌というほど見てきた。それを象徴するのがコロナだったのを忘れてはならないはずである。 
事程左様に、社会に抗うのは事実上不可能であり、社会の条件が変化すれば今まで当たり前に出来ていたことができなくなる。コロナの場合にはコロナが収束すれば元の生活に戻れば良いかもしれないが、すべてがケースバイケースというわけにもいかない。マスクだってインフルエンザが減少したことなどからコロナが収束しても以前のようには戻らない可能性が高い。タバコに関してはもはや以前のように戻ることはないだろう。SNSも一度規制されてしまえば元に戻すのは難しいはずである。
人間、自分には関係ないことには無頓着なのでタバコを吸わなくなれば吸う場所がなくなってもかまいやしない。自分が自粛したいと考えているのであれば社会の自粛圧力がどれだけ強かろうとも他人事として処理する。SNSも同様に、そのうち他人事化してSNSなんて使ってるほうがそもそも悪いみたいな話にいつかなると思っている。その時、憎悪扇動罪が制定されSNSディストピアになろうとも、もはや誰も気にしなくなるだろう。そして、そうなってからは遅いのだ。個人主義化した社会では、ゾーニングが敷かれ一旦隔たれればもう一度混ざり合うような議論を提起すること自体が難しくなる。
その前になんとか「あちら側の悪意と織り成す社会」を考えたほうが良いように思う。社会に染みついたあちら側とこちら側を隔てるゾーニングという方法論に頼るのはやめ、どうやって相容れない他者と共存していくのかというその人の間をを考えてこそ人間だと思うからである。