花束を見た。先日のことだ。東京から山梨に向かって車を走らせていた途中、富士山の麓にある水ヶ塚公園に立ち寄った。公園の駐車場から遊歩道を抜けた先には富士山を一望できる腰切塚展望台がある。周りは木々が生い茂っている中、腐れかけた木製の階段を100段ほど上がっていくと展望台が現れる。その展望台の下、富士山を望むように花束は置かれていた。青く美しい花だった。写真におさめようとしたが手が止まった。きっと誰かが誰かを思って置いた花だったからだ。ただ地面に花が置いてある。それだけのことなのに、いろいろ想像せずにはいられなかった。誰が誰を想い置いたのか、その花が持つ物語がなんなのかを。
富士山を望むように置かれていたことから、登山中に滑落して亡くなった方の遺族が置いたものかもしれない。自殺の名所として知られる樹海が近いのでそこで命をなくした方に向けて供えられたものなのかもしれない。バイクで峠を攻める人が多いところでもあるので事故に遭って亡くなられた方へのものなのかもしれない。あるいは、富士山を信仰している人が置いたものなのかもしれない。
人はただ単に地面に花束を置いたりしない。無造作に捨てられていると考えるにはあまりにも場違いで、美しい花だった。
思えば誰かの物語を想像するということを長い間、忘れていたような気がしている。言語化の波に押しやられたのかわからないが、人それぞれに物語があって、それは軽々と人前で話せるようなことではなかったり、簡単に言葉にしないものであることは容易く想像できるはずなのに言葉にしない物語への畏敬の念を忘れていたような気がしている。塚に置かれた花はそれに気づかせてくれた。
僕達は誰かを想像する時、言葉が届く範疇でしか表現することができない。それが言語化の限界であり、その限界があるがゆえに言葉を尽くされた表現はその切実さゆえに人の心を打つのだ。ただ、どうしても言葉にならない感情を持つ時が人にはある。それを想像することが想像力のほとんど唯一と言ってもいい役割なのだろう。人が泣くのを見て手を差し伸べる、人が言葉に詰まった時にこそ共感してあげる、塚に置かれた花を見て物語を想像する。
そうした非言語的解釈は言葉が氾濫する今の世界ではむしろ時代に逆行するようなものだ。それもそうで勝手に誰かの物語を想像したり解釈することは時に致命的な間違いになる可能性がある。わからないことには沈黙し、言及することも想像することも回避する。それがある種正しい態度として奨励されるのが齟齬を産まずにコミュニケーションをとる術なのだ。
しかしながらそうした事実への気遣いをするがあまり誰かを想像し、想いを馳せるという営みすらも回避し続け、ついには忘却していたのかもしれない。
誰かの物語を勝手に想像することは、そこに敬意があればそれほど悪いことではない。けれど日常のコミュニケーションがあまりにも「ジジツめいている」ため、塚に置かれた花にでも出会わない限り忘れてしまうものなのだろう。花を媒介にして見知らぬ誰かが誰かを思う物語を想像する。そうでなければ想像力を発揮する機会などほとんどなくなってしまった。言い換えれば人はなにかを想像する時、媒介が必要である。塚に置かれた花に出会った時、人は考えずにはいられないからだ。おそらくは宗教だってそうなのだろう。今より人が自然に近かった時代には多くの媒介があったことで様々な想像がなされ神や信仰が生まれていたのかもしれない。
そこまで大げさな話でもないのだが、想像力とはおそらくひとりでに立ち上がるものではない。もっと具体的な産物であり、想像力とは塚に置かれた花それ自体であるのだろう。
余談
腰切塚展望台はずいぶん綺麗な場所だ。周りには富士の樹海が広がり、歩いていると飲み込まれそうな雰囲気がある。そこに置かれた異物としての花束はひときわ目を引くものだった。展望台からすこし歩くと腰切塚噴火口があり、遊歩道を脇にそれた先に大きな穴が口を広げている。富士山特有の火山灰を含んだ土壌の荒々しさと、岩にはりつく苔の静けさがどこかアンバランスな印象を与え、訪れる人の息を飲ませる。さらに奥にはいると青木ヶ原樹海が広がっているため、ここから自ら命を絶っていった人がいたのかもしれないと想像せざるを得ない場所だった。風光明媚と言えるような場所ではなく、どこか物々しさが漂う場所であるが、だからこそそこに置かれた花束は一際目を引くものであった。