メロンダウト

メロンについて考えるよ

記号、形骸、物語、神話、ボードリヤール、あるいは白饅頭

ポスト・トゥルースとはこういうことなのかもしれない。

反知性主義とかMetooとかポリコレが悪魔合体したような出来事

gendai.ismedia.jp

日本の時代遅れの男性権力者が女性に性的暴行を加え、その権力によって女性を黙らせた」というストーリーのもとに、この出来事を報じた。しかしこれを「社会正義」などと称賛している人びと

 読んでいてボードリヤールを思い出した。

以前書いた記事の引用部分

神が消滅し、現実も消滅し、生産が飽和し、ヒカキンが量産された - メロンダウト

幻想、夢、情熱、狂気、ドラッグ、さらには詐術やシミュラークル、こうしたものが現実性にとっての自然の捕食者だった。だがこれらすべては、あたかも陰険な不治の病に冒されたかのように活力を失ってしまった。だから、それに匹敵する人工物を見つけてやらねばならない。さもなければ現実性は、臨界質量にひとたび達すると、ついには自発的に自らを破壊し、自分から爆縮してしまうのである

~~~とはいえあらゆるかたちのヴァーチャル性を許容することで、現実が実行しつつあるのがこれなのだ。

 

ヴァーチャル性。これこそは究極的な現実性の捕食者かつ破壊者だ。ウィルス性の自己破壊的要因として、現実性自体から滲み出てきたものだ。

現実性は、仮想現実の餌食となった。これが客観的現実性の抽象化において開始され、インテグラルな現実において完遂されるプロセスの究極的な帰結である。



ヴァーチャル性とともに、背後世界はもはや問題でなくなる。世界は全面的に取り替えられ、同一のものによって二重化され、完全な蜃気楼となる。そして象徴的実質をただ単純に消滅させてしまうことで、問いが解決されてしまう。客観的現実性さえもが無用な機能、一種のゴミとなり、その交換と流通とはますます困難になる。それゆえ人々は、客観的現実性からその後の段階へと移行したのだ。現実性と幻想とを同時に終わらせる、一種のウルトラ・リアリティに。

 

夢、情熱、狂気が現実を捕食するものだったが合理性などによって現実からは排除された

夢や狂気に代わって人間を駆動するものがヴァーチャル性

ヴァーチャル性は現実からにじみ出てきたもの

現実からにじみ出てきたヴァーチャル性とヴァーチャル性によって規定される現実で世界は二重化される

背後世界は問題ではなくなる

客観的現実はもはやゴミで問題にされない

 

 

ボードリヤールは『消費社会の神話と構造』のほうが有名ですが『悪の知性』のほうが個人的には面白いと思います。

一番上の草津での出来事を見ていて思ったのは

ボードリヤール的に言えば、僕たちは物語というヴァーチャル性によって現実を捕食、破壊しようとしている。それぞれが同調しやすい物語を現実にトラックバックすることで現実を書き換えようとしている。

なのでそこには客観的事実(草津の件では性暴力があったのか否か)を反映しないでいられる。僕たちの現実は情報によってかたどられた物語に依存しているので客観性なんてのはゴミでしかなく、主観的視点や立場から見てしか物事を捉えられなくなっている。

それが冒頭記事で御田寺さんが批判している人々のことだし、あるいはポスト・トゥルース反知性主義もそう。もっと言えばポリコレやコンプライアンスなどもその亜種と言っていいものだろう。この世界には正しい物語や正しい良心が存在していてその物語を信仰してその物語で現実をかたどれば世界はよくなるという、正しさカルトみたいな集団が確かに存在している。その物語をもってして世界は取り替えられていっている。

誤解を恐れずに言えばそれがすべての問題の根源にあると言ってしまっても過言ではないと思う。

 

当然ながらこういった認識で現実をかたどっていくのはとてつもなく危ない考え方のひとつである。

物語の非情さを語るに、主人公は自分で仲間がいて、そしてその他大勢はモブでしかないところにある。フィクションに登場するモブにたいして物語を想像しないように、物語として語られたものにのみ物語を認める。物語は主観的にしか消費されえない。それが物語の危険なところでそうやってかたどられたイデオロギーはもれなく排外的な側面を持ってしまう。ラディフェミが性描写を排外しようとしたり、Metooが男性を危険視したり、ネトウヨが在日を排外しようとしたり。主観的物語のみに依拠したイデオロギーはもれなく排外主義的側面を持ってしまう。

 

Metooはもともとはそういったものではなかったようにも思うが、そうやって流布された物語のひとつとしてMetooは機能してしまっている。それは草津の件からも明らかだろう。「女性が高齢男性に搾取されている」といった物語はとてもわかりやすい。

その物語を構築しうるだけの情報が出るとその情報にタグを付けて処理する。ハッシュタグとはよく言ったものでタグをつけることで物語を分別して「これはこういった情報だからこういった物語」と整理して、排外する。

そういうタグ付けに熱心なのがリベラルだけどリベラルという考えがもはやタグをつけるための記号にしかなっていなく、形骸化している。

情報を物語という記号に置き換えてその物語を神話にすることで正しさは形骸化する。ネット上でたびたび問題となるようなイデオロギーはすべてこれで説明できる。

 

 

情報について書いてきたけれど、なにも情報に限った話でもない。すべてのモノやサービスも同じようなものとなっていて、こういった消費の仕方が書いてあるのが『消費社会の神話と構造』だけど

僕たちは技術発展やそれに伴う経済成長によって豊かな社会をめざしてきた結果、豊かさが幸福だという神話の中に生きている、と書かれている。ブランド品や宝飾品にガジェットなどすべてのものが豊かさという消費構造の内におさまるもので、あるいは旅行に行くことすらも消費だと書かれている。

ボードリヤールはこうした消費の動機について人々は差異を求めるものだからだと説明した。人よりも良いサービスを受け、人よりも良いもの、人が持っていないものを消費することで人はその差異を確認する。そしてその差異をもってして人よりも深き神話(豊かな人間像)の中に入っていく。

そういった豊かで幸福な人生といった枠組みの中にいるかぎり消費社会からは抜け出せないと、ポストモダンの議論とはつまるところそういった近代主義的な豊かさからいかに抜け出すかみたいなものでボードリヤールもその一人だったけれど、僕たちはいまだに近代から抜け出せていない。

それどころか消費社会という神話にだんだん無自覚になっているのではないか。そう思わざるを得ないのだ。

今までは物質的に豊かになろうで済んでいたのだ。しかし僕たちは情報をも消費しはじめるようになった。

情報をタグづけして差異を確認する。差異を確認して自分の正しさを位置づける。その正しさを基準にして物語を構築することで小さい神話を生み出す。その神話の中にいれば幸福になれるのだと、豊かになれば幸福になれるのだと、正しくあれば幸福になれるのだと、そうやって気持ちよくなってしまう。そういう物語があらゆるところに点在している。インターネットがない時代から言われている消費社会論だけど

情報を消費しなければならない僕たちはポストモダン思想家が批判した近代よりも難しい時代を生きている。

 

ボードリヤールを読んだ時にはすべてが消費だとか豊かな生活は消費社会の神話だとかそんなこと言われてもと、読んだ当時は思ったけれど、思い返すに、すくなくともこの世界が神話というフィクション、一部のヴァーチャルでできていると自覚することはとても大切なことのように思うのだ。それに与するか与しないかは別にしてその構造を知ることはとても重要なことである。

神話化した物語は危ない。すくなくともそう自覚することで回避しうるトラップがいたるところにあるからで、それはインターネットで情報を消費する時にも同じことが言える。

差異を利用し、その差異によって物語を神話化し、動員することは資本主義的にも民主主義的にも極めて有効な手段たりえる。有効だからこそめちゃくちゃ多い。というよりも全部そう。このブログもそう。

だからこそそういった物語に関して距離を取ることが重要になってくる。一歩ひき、それはヴァーチャルなものでしかないと自覚することで

はじめてこちら側の自由を生きることができるのではないだろうか。