メロンダウト

メロンについて考えるよ

神が消滅し、現実も消滅し、生産が飽和し、ヒカキンが量産された

格差社会という言葉を聞くとボードリヤールを思い出す。ボードリヤールは人々が生産する時代は終わり、消費する時代に移行したと喝破した。

エンターテイメントは言ってしまえば無用の長物である。無用ではなくともそこになにがしかの教訓を見出し、自己を委託するとすればそれは記号論的な消費となる。どちらにしろエンターテイメントは消費物でしかないという過激派みたいなことを最近、たまに考える。無用だからこそ消費していて「楽しい」わけなのだが。

 

 

ジャン・ボードリヤール「悪の知性」より引用

 幻想、夢、情熱、狂気、ドラッグ、さらには詐術やシミュラークル、こうしたものが現実性にとっての自然の捕食者だった。だがこれらすべては、あたかも陰険な不治の病に冒されたかのように活力を失ってしまった。だから、それに匹敵する人工物を見つけてやらねばならない。さもなければ現実性は、臨界質量にひとたび達すると、ついには自発的に自らを破壊し、自分から爆縮してしまうのである

~~~とはいえあらゆるかたちのヴァーチャル性を許容することで、現実が実行しつつあるのがこれなのだ。

 

ヴァーチャル性。これこそは究極的な現実性の捕食者かつ破壊者だ。ウィルス性の自己破壊的要因として、現実性自体から滲み出てきたものだ。

現実性は、仮想現実の餌食となった。これが客観的現実性の抽象化において開始され、インテグラルな現実において完遂されるプロセスの究極的な帰結である。

ヴァーチャル性とともに、背後世界はもはや問題でなくなる。世界は全面的に取り替えられ、同一のものによって二重化され、完全な蜃気楼となる。そして象徴的実質をただ単純に消滅させてしまうことで、問いが解決されてしまう。客観的現実性さえもが無用な機能、一種のゴミとなり、その交換と流通とはますます困難になる。それゆえ人々は、客観的現実性からその後の段階へと移行したのだ。現実性と幻想とを同時に終わらせる、一種のウルトラ・リアリティに。

 

 

長い引用ですけどそのまま書き起こしました。

この文章の前段にボードリヤール

神が消滅したことで人間は現実の前にたたなくてはならなくなった、そして神という上位概念がない現実はインテグラル(画一的)になったと書いています。

ここでいう画一性とは上記引用した部分の「世界は全面的に取り換えられ同一のものによって二重化される」という部分のことでしょう。

自己の客観的現実は無用なものとなり仮想的消費による外部からの意味づけによって記号化され個人が消失してしまうことになる。具体的にはブランド品の洋服を着ることでそのブランドと自己を同質化してステータスと信じ込むことなどがあげられる。

それをボードリヤールは消費社会の前段階だと呼んでいる。

 

 

自己は自己のみで自己たりえるかという問いがある。これにたいする一般的な回答は他者ゆえに自己は形作られるといったものだ。

多くの場合、自己を形作るものは資本主義的な活動の外部にあった。家族や友人などがそれにあたる。しかし資本主義が高じると生産活動と自己を同質化するようになった。自分は料理人である、政治家である、主婦であるなど活動そのものを自己と連動して自己存在を規定するようになった。けれどもそれは生産活動の範囲に留まっていた。

しかし生産が飽和状態になると生産活動が意味を消費するものに変わっていった。必要なものはオートメイションによって生産可能となり内的な消費へと需要は変化していった。そうした時にブランド品やエンターテイメントなどの意味を付与する消費財が作られるようになった。そして消費による意味づけによって自己を規定するようになっていったとボードリヤールは書いている。

 

過去、家族以上に自己を形成しうる消費財はなかったしあったとしてもそれは許されていなかった。あるいはそういった無用な長物を消費するだけの暇もなかった。しかし今はみんな暇である。ヒカキンの動画が1000万回再生されるぐらいみんな暇である。暇であると自分にとって心地よい他者=消費財を探すことになる。家族や友人は齟齬が多く、自己を規定する他者としては不完全だとし、自分の「居場所」なるものが声高に叫ばれるようになった。

 

人々が内的な迷いを抱えてそれを埋めようと欲する時、資本はそれを補填する消費財を提供する。ブランド品もそれを着ていれば安心するという機能がある。自己を規定する材料も消費財として現れ市場競争によってそれは洗練されていく。

その完璧さゆえに一方で不完全な現実はゴミとなって爆縮していく。それが消費社会で起きていることのひとつである。

冒頭でエンターテイメントは無用の長物だと書いた理由はそこにある。

なぜ僕達は生産のほうが尊いとわかりながら消費するのか?

なぜなら消費こそがいまこの時代において自己を規定する完璧な方法であるからだと言える。

 

格差がひろがり下層な現実でわけのわからないことを言う上司とかかわって生産するよりヒカキンの動画を見て消費していたほうが自己形成として「正しい」のである。

 

しかしヒカキンの動画を見てヒカキン的自己を持つ人間はたくさんいる。そうして完璧で正しいヒカキン的自己を持つ人間が大量生産されインテグラル(画一的)になっていき、個人個人の自己とヒカキン的な消費財によって形成された自己に「二重化」されていく。

そうして消費により現実と幻想(他者によって形成される自己)を終わらせる。そうした世界をボードリヤールはウルトラ・リアリティーと喝破した。