宇崎ちゃんが性的かどうか話題になっているみたい。
こちらの記事では常識の変遷に関連して語っている。
萌え絵を一般的なものとして受け入れる層と受け入れない層がいる。それは前段として考えるべきだと僕も思う。しかしそうしてあっちは受け入れていてこっちは受け入れていないとクラスタごとに分けて語るのは切断処理にしかなっていないんじゃないかという印象を受けた。
僕はブクマでもこの手の表現の自由界隈についてはあまりコメントしないのだけど、それは上記記事でも書かれていたように人によって感じ方が違うということを乗り越えられないと思っているから。そういう意味で若干の諦観を持ってこの記事も書いている。
結局、絵のような抽象的な表現を定量化して語ることは難しい。最終的にそこに着地する。萌え絵が若者の間で当たり前のものとして認知されているからといってそれが公共性にかなう物なのかは誰にも判断できない。
判断できないから個人の嗜好が全面に押し出されてあれは公共的、これは公共的ではないと全員が神視点の話にしかならない。
いわゆる生理的な嫌悪感をもよおすグロい絵は公共空間からは排除しようという暗黙のコンセンサスがあるが、それと同じレベルで萌え絵を見て生理的嫌悪感を抱く人も中にはいるかもしれない。そういう分断が結局、とても深刻なのだと思う。
それにたいして現実的な解決手段として最も言われているのがゾーニングなのだけど、それも結局どこまでがゾーニングされるべきかという問いにたいして明確な線引きができないでいる。これはゾーニング対象だというと違うと言われ結局は個人の嗜好になって話がまとまらない。
僕個人の嗜好を暴露すれば宇崎ちゃんは献血のポスターとしてはふさわしくないとは思っている。ああいう萌え絵はどちらかといえば好きなほうの人間なのだけど献血という公共的なものにたいして使うのはこれだけ批判が噴出していること自体がすでに公共的ではないという証左でもある。萌え絵を受け入れられない層も認知しろということは少なくとも僕は間違っていると思う。受け入れられない層も含めて全員のコンセンサスが「ある程度」とれるものが公共物としてかなっている。もちろん全員が納得いくものなど存在しないしいちゃもんレベルのクレームによって委縮すべきではないが現在の宇崎ちゃん騒動は充分に公共性にかなわないと言える規模にまでなっている。
表現をするのは自由だがそれを採用するかは現在のコンセンサスに沿うべきである。
萌え絵がセクハラかどうかは見る側が決める。表現する側には表現する自由があるが見る側にもそれを見ない自由がある。それを見たくないと考えている人が多数存在するのならそれは公共空間に設置されるものとしてはふさわしくない。どこか別の場所で自由に表現すればいい。すくなくとも僕はそう考えている。
胸がどのくらい大きいと駄目なのか、どのくらいのアへ顔ならオーケーなのかは個人の嗜好でしかなく定量的な判断ができない以上、それが公的なものたりえるかは民主的に決定する必要がある。
僕個人としてはああいう絵が認知される世界になってほしいと願っている。ゾーニングも必要ないと希望している。しかし僕は僕の認知でしか僕の嗜好を語ることしかできない。しかし新しい文化だからといって認めるべきだとも思わない。同時にああいう絵を嫌だと感じる人の気持ちもさっぱりわからない。結局、僕は僕の好悪の外に出ない。
なら公共空間については民主的なプロセスを経た決定に従うべきだと思う。
そして宇崎ちゃんはこれだけの騒動になっている点で少なくとも公的なものとしてはふさわしくなさそうだという感じが今のところしている。
なので碧志摩メグの時にも思ったけどこういう議論が出た時には単純に投票すればいいと思ってる。多数決による半数とかではなく効用を考えてどのくらい嫌かどのくらいいいと思うかを数値化して投票すれば決が出る。
公的な設置物であればそれに従って運用すればいい。
タグボートに投票箱をつくってみたけど当ブログのアクセス数を考えるに有意な数の票は集まらないと思う。暇な人は暇つぶしにでも入れてみてください。
宇崎ちゃんは公共物としてふさわしいかふさわしくないか
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