メロンダウト

メロンについて考えるよ

ゾーニングに関する雑文

駅へと歩いていたら、前からタバコを吸いながら歩いてくる女性がいた。アイコスだったかgloだったか。いまどきめずらしいなと思ったけど、その女性は僕に気づくとタバコを隠してすれちがっていってしまった。

深夜で誰もいないと思っていたのか。歩きながらタバコを吸っていた女性。僕に気づいた彼女は吸うのをやめてしまった。僕が彼女の自由を邪魔してしまったことにばつの悪さを感じ・・・僕も路上喫煙してみることにした。

 深夜でほとんど人がいない駅前の繁華街。すこしわきに入れば完全に無人だ。歩いていき、コインパーキングに着く。空いたペットボトルを灰皿にし、タバコに火をつける。紫煙をたちのぼらせると、ひどく懐かしい感覚を覚えた。

ああ、昔はこうやって世界を接続していたのだ、と。

公的領域と私的領域は分けるべきだという議論がある。ゾーニングと言われるやつだ。エロ本などがその筆頭に挙げられる。喫煙もいまはゾーニングすべきものとして扱われている。他人に迷惑をかける行為をしてはならない。そういった行為はしかるべき場所で行わなければならない。最も基本的な社会のルールである。

私自身、基本的にゾーニングには賛成の立場であるけれど、疑問がないわけではない。なんでもかんでもゾーニングで解決しようとするのは切断処理に他ならないからである。ゾーニングは他人と自分とのすみ分けとして議論されているが、その射程は私たちひとりひとりの内心までをも捉えているのではないだろうか。そんなことを思うようになった。

公的領域と私的領域が混ざることで世界への視界が開けていくという側面が人間にはある。けだし肌感覚としての感想に過ぎないのであまり実のある話ではないことを先に書いておく。

路上でタバコを吸うように、公的空間で私的な行いをすることで、世界がグラデーション化され、混ざる。ひどく抽象的な言い方であるが、同時に肌で感じるような感覚でもある。私的空間と公的空間を架橋することで自己の外に歩いていくことができる。おそらくはそういう体験が人には必要なのだと思う。テーブルマナーがある店でマナーを無視して食事をしたり、路上で歌を歌ったり、飲みの席で上司にタメ口で話す無礼講だったり、公園で焚火をしたり、一見すると「悪い行い」をやった時にこそ見えてくるものがある。

最も有名なものがドストエフスキーの『罪と罰』で、主人公のラスコーリニコフが老婆を殺害してしまった時の葛藤が代表的であるが、「やってみなければわからないことはやってみなければわからない部分」が人間にはある。もちろんこれは殺人をしてみろという話では断じてない。ありえないとは思うが、絶対に勘違いしないでほしい。殺人の機微など一生知らなくてよい。

ここで言いたいのは、「悪行や路上喫煙など、愚かな行為をし、善悪の境界線に踏み込んだ時に見えてくるものがある」という回路の話である。

いわゆる愚かな行為こそが人間を開くものだったりする。それは誰もが体験的に知っていることではないだろうか。コミュニケーションひとつとって見ても、子供のころに言われて嫌な言葉だったり、相手を傷つけた経験だったり、そのような経験をもってして言葉の使い方に境界線を引くことができる。それがここで言う公的領域に踏み込むということである。

その意味で、愚かな行為こそが振り返った時に重要な経験だったりする。もちろん、このような話は相応の反発を招くだろう。愚かさに相対した人に犠牲が伴うので、それを擁護することはできないし、また擁護すべきでもない。はじめから愚かな行為をしなければ良いというのはその通りであるし、僕もそう思っている。しかし同時に「それは理想論に過ぎないのはではないか」といった疑念があるのだ。いじめをする子供などを見ていてもそう思う。人は元来愚かで、教育や経験によって人間になっていくと。

こういった経験を培うためには、社会的なグラデーションが必要であり、私的な行いが通念的に許されている必要がある。誰もいない路上でタバコを吸っていた女性は実質的には何も悪くはない。もちろん公的なレベルでは路上喫煙は駄目だとルール化するしかない。老人や乳幼児などがいる場合などと付帯条件をつけることは条文のうえでは不可能だからだ。不特定な他人がいる場所では吸わないのが正しい。しかしその公的ルールが法の枠を超えて通念化すると公的領域と私的領域が完全に分断されることになる。内と外に隔たりが生まれ、内的自己と外的自己が分裂し、世界が混ざらなくなる。そして誰も内外の境界線を「自ら」ひくことができなくなる。内外の境界線はゾーニングによってのみ決められていってしまう。

ゆえん生きづらさというやつもこうした構造と無関係ではないであろう。ゾーニングにより私的領域と公的領域が分断されると、世界に踏み込めなくなり、自分自身と外の世界を混ぜることができなくなり、経験が喪失し、自他の境界線をひくことができなくなる。そのような状態で、自己が自己に閉じ込められていることをもってして、息苦しいという状態に至る。さもなければ自己存在をまるごと公的なものへと変身させてしまう。日本すげえというネトウヨであったり先鋭化したリベラルがこれにあたるかと思うが、私的領域と公的領域の「相克」を乗り越える機会が現実に失われたことで、自他の境界線がひけなくなり、自己が「社会思想」と同一化してしまう。ベタな言い方をすれば究極のキョロ充と言えるけれど、私的領域が公的領域に完全に侵食された時、人間としての「身体性」は問題にされなくなり、身体性を無視した正しさを振り回すようになる。それをもってして先鋭化と言うのであろう。

その意味において愚かな行為と、それによって描画可能になる自他の境界線、そして身体的現実感、そして社会思想とは連続していると言える。歩きたばこしている女性を見てそんなことを考えていた。