メロンダウト

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自由の代価、漂白される社会、マッチングアプリ~保守すべき自由とはなんだったのか~

排除アートに類するものはもう何年も前から問題になっていた。開沼博さんが『漂白される社会』を書いたのは2013年。もう何年も前に読んだっきりなので細部までは覚えていないが、著書の中では売春島、ネットカフェ難民貧困ビジネスなどについて書かれていた。この社会が「漂白」され周縁に押しやられた人々が持つリアリティーに光をあてた本だった。排除アートも同様の構造を持っている。喫煙なども近年になり社会から漂白されたものの代表と言えるであろう。開沼さんだけでなく最近だと朝井リョウさんの『正欲』も同様の問題意識を持つ作品だと言える。

 

オウム真理教地下鉄サリン事件を原因として街中からゴミ箱が撤去され、公園で飲酒するような中年の日常も風景としてはなくなり、道路で遊ぶ子供もいなくなり、街はとても綺麗になった。一方で「アーキテクチャーとしての街」はどんどん不自由なものになってきた。一見すると清潔に見えても場所ごとにタグ付けされているかのごとくそこで行える人間の行動は時に極めて限定的であり、自由は制限されている。そのような空間の蓋然性は強くなっている。それぞれの場所が属性分けされて目的的なものへと変わっていった。東京などの大都市において特に顕著であろう。あるいは郊外の公園でもそうした趨勢は例外ではない。それぞれの場所において可能な行動は限定的になってきている。公園で花火をしてはいけないこと、路上に座ってはいけないことなど例を挙げればキリがない。明文化されているいないにかかわらずその場所が持つ属性が強くなることで規範も強くなり、そこで行える人間の行動は限定的なものになる。

 

そしてそれはゾーニングによって線引きされてきた。ゾーニングによって生み出す分断がどのような弊害をもたらすのか想像もせずに、である。

ゾーニングとはようするに統治の論理であり、排除アートのようなものは人々をコントロールするために作られている。しかしながらそうして排除された人々は社会の周縁部に押しやられ、不可視化されてしまう。それが開沼さんや朝井さんが書いていることであった。

この社会は自由が大事だと叫び続ける一方でゾーニングによって人々をコントロールしようとしている。個人の自由を犯してはならないというリベラリズムが支配的になればなるほどゾーニングアーキテクチャによって人々は分断されることになる。人権や自由を建前として使用すれば人に直接諫言することはできなくなるからだ。間接的に人の行動を制限するしか術がなくなる。ホームレスの方に直接言うことができないならばアーキテクチャを使い間接的にそのメッセージを伝えるのである。「おまえはここで寝てはいけない」と。

 

自由に縛られる政治

このような「アーキテクチャによる間接的な行動の抑止」と「排除される人々」はホームレスの方に限った話ではない。

政治的にも規範性(日本人、女性の人権、LGBT等)を根拠とし、それ以外を排除する趨勢は強くなる一方だ。実際に政治的規範性、ポリティカルコレクトネスによって退場させられる政治家は後を絶たない。

ポリコレと言うとリベラルの言葉のように聞こえるかもしれないが、自民党も例外ではない。むしろより強く体現しているとすら言える。ポリコレによって間違ったことを言えないため、答弁を煙に巻いて仮初めであろうともその威勢を保とうとする心性は菅総理からもありありと見て取れる。間違った発言をしないこと、批判なき政権であること、無謬性を保とうとする姿勢は安倍政権のころから連綿と続いている。ポリコレに迎合する政治家の姿勢は上述したような社会の趨勢と地続きであることはおよそ間違いない。ホームレスの方が排除アートによってゾーニングされるように、政治家もまたゾーニングされる。田中角栄小泉純一郎はそうした社会の趨勢からは自由であった。しかし、社会が漂白されはじめ、清潔で理性的な秩序が支配的になればなるほど発言することの危険性が増し、何も答弁しないことが政権の生存戦略となったのだ。

 

仮初めの社会

この社会を「あるべき姿」にデザインしようとすればするほど、そうでない人々は周縁部に押しやられることになる。政治家やホームレスの方だけではなく我々市民も例外ではない。あるべき社会が支配的になればなるほど「そこにいても良い人間」という証明が必要になるため体裁を整えることが重要になってくる。政治家も市民もみなが体裁を取り繕うため、ポーズを取るような社会になった。その結果すべてが仮初めに変わってしまった。

仮初めの政権、仮初めの風景、仮初めの自由、仮初めの日本スゴイ、仮初めの五輪、仮初めの平和という具合にすべてが外形性、つまり体裁を整えることが一義的なものになりつつある。直近で言えば五輪のボランティアにたいして「五輪開催の雰囲気」を生み出すために現地までユニフォームを着ていくのを要請したこともそうであろう。体裁を繕うために人間を配置していく。そうした蓋然性はすでに多くの場所にある。排除アートは氷山の一角に過ぎない。この社会はもう随分前から漂白を始め、仮初めを取り繕うことに終始し続け、あるべき社会へと移行しはじめているのだ。

あるべき社会、つまり「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会」へと。

 

 

マッチングアプリという周縁
このような話と関係するもので、白饅頭氏のnoteに印象深いものがあった。

暗黒メモ「もうだめだ。俺は婚活をやめるよ」|白饅頭|note

マッチングアプリを始めて女性の傲慢さに嫌気がさし、田舎に帰った青年の話である。女性嫌悪になる模様がありありと書かれており、衝撃的ではあるものの、こうした心理はいまや珍しいことではないのだろう。このnoteに書かれている問題も上述したような社会と無関係ではない。マッチングアプリはまさに周縁に押しやられた人々の愛憎劇だからだ。
まずもってマッチングアプリがここまで流行っている理由のひとつにポリコレやそれに紐づくハラスメントを怖がる風潮があることは間違いない。社内で女性を誘うことが難しいために男性はマッチングアプリを利用するようになり、女性もまた男性に誘われることがなくなったのでマッチングアプリを利用する。ポリコレはまさに合理性そのものであるが、そうした合理性のもとに人間の欲望、性愛は社会の内部において漂白され、排除された人々がマッチングアプリを利用するようになった。つまるところマッチングアプリとは漂白された社会の周縁部なのである。
しかしながら社会の内部とは違い、周縁部ではいかなる社会性も所与のものではないために動物としての欲望が剥き出しとなる。女性がハイスぺ男性を望み、一方の男性は完全なる格差社会となっておりハイスぺ男性がヤリモクで利用してロースペ男性はマッチできない。それがマッチングアプリの現実である。マッチングアプリはポリコレという合理性によって恋愛を社会から漂白した結果生み出された地獄なのだ。白饅頭氏の記事に書かれている青年は漂白化された社会の被害者とも言えるであろう。そして、このような地獄はもはや誰にとっても他人事ではない。マッチングアプリに限らずともいつなんどき誰がどのような形でこの社会の周縁に押しやられてもおかしくはないからだ。僕たちは新しい緊張の時代を生きている。

Welcome to a new kind of tension

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自由には、必ず代価がある。

誰かの自由を守るために秩序を整え、ゾーニングすることによって私的な自由を守ろうとすれば公的な自由は失われることになる。場所ごとに秩序立てるようなゾーニングの論理は必ずどこかにしわよせがいくようになっている。自由にかかるリソースは有限なのだ。今までそれは社会の周縁部に押しやられて無いことにされてきた。しかし、いよいよもって自由や合理性の限界があらわれてくるようになった。それはコロナによってよりあらわになってきたし、マッチングアプリにも如実にあらわれている。
僕達は私的な自由を散々言ってきた。多様性を金言とし、個人主義御旗のもとにプライベートを至上のもととして扱ってきた。その一方で公的な自由を蔑ろにしてきた。「建前」「幻想」「コモンセンス」などそこには本来保守すべきものだってあったはずだ。

純愛という幻想、他者の存在という公共性、貧困というリアリティー、お金がすべてではないという建前、嘘も方便、ゲマインシャフトなどなど。

これらは保守すべきものであったが、自由の名のもとに廃棄された。ありとあらゆる公的な建前を廃棄し、社会の隅々まで「私的自由の空間」としてデザインするようになった。いまやベンチすらも目的のうちに定められ、誰にとってのものか、その利用方法はあらかじめ決定している。物だけの話ではない。すべてが目的的なものへと変化し、余白がなくなった都市の構造においてこのような限定性は我々の心までも捉えている。自分がどういう人間であり、どのような場所に属するのか、あるいはどのような場所に属してはいけないのか。自らの内面を自己批判的に判断して内面化している人は多い。

男性が結婚しないのは経済的理由を内面化しているから - メロンダウト

他者からの評価を自分自身で内面化する傾向というのは日本人は特に強いのではないかと感じている。日本ではよく「相手にたいして失礼」ということが言われる。しかしこの文章には続きがあり相手にたいして失礼だから「自己を整えよ」という文章が暗黙的に付記されている

 

自由の実勢

ゾーニングが実際の人間関係までをも侵食し、社会の内部における自由はそれを許された人の特権にすらなっている。それ以外の人々はあらかじめ排除されるか、もしくは実際にハラスメントなどを起こして事後的に排除される。どうあれ社会全体が規定されている以上、その枠に適応できない人々は排除される。ある人々にとって自由でいることは条件的に不可能なのだ。とにかく他人に迷惑なことをしてはならない。そして、他人に迷惑な存在であってすらならない。デザインされた街の風景に同和しなければ私的な自由は許されない。そうした空間が僕達の自由を脅かしてきた。物に属性を付与し、人間にも属性を付与し、逐一名前を与え、すべてを適材適所に配置されるべきものとして扱ってきた。それが多様性や自由の「実勢」なのだろう。

 

適応競争
そうした社会において何が始まったかと言えば「適応競争」である。

健康的で道徳的なものにデザインされた社会に適応することではじめて私的な自由が得られるため、適応が一義的なものへと変化した。どんなに才能がある個人であろうともキャンセルされる時代においては、まずはじめに適応することが必要になる。女性の自由を守り、LGBTの自由を守り、若者の機嫌を損なわないというロールプレイをもってしてはじめて人は自由になれる。「仮初めの適応証明」をもってして個人の自由は達成される。適応競争に打ち破れた人々はゾーニングの論理のもとに周縁部に押しやられる。まるで犯罪を犯したかの如く、自由という理念によって人は周縁部に収監される。この社会は自由が一義的なものではない。自由という規範が一義的なものなのである。

 

自由という儀礼

コロナが流行り始め、ソーシャルディスタンスが喧伝されてきたが、この社会はコロナより以前から人と距離を取らなければいけない空気が支配していた。会社の飲み会が若い人の間で回避されるようになり、ハラスメントを事前に回避するなど、他者にたいして侵犯しないことが正しいとされ、いまやそれは僕達の内心をも捉えている。

僕達は他人に干渉することをほとんどやめた。自由という理念が他人にたいして無関心になるお墨付きを与えたからである。自由という儀礼性を心理的な防壁とすることで排除された人々にたいして無関心でいられる。自分と他人は違う。多様な人々がいるなどと、すべてわかったふりをして他者と自己を分断し、自由へと頽落するのである。

 

保守という次善策

自由が生み出すこうした弊害にたいする「次善策」が保守の言う伝統だったのであろう。たとえば飲み会を開けば人間同士が衝突するし、めんどくさい場面にも出くわすが、それよりも一緒に飲むことで仲良くなることが「次善的」にベターであったのだろう。あるいは恋愛においても自由に恋愛することができればマッチングアプリという地獄に落ちる人も少なかったはずだ。もちろん飲み会にしろ恋愛にしろ諍いを生むことは当然あるけれど、それでもそれは「ありうべき衝突」だったのだろうなと、今になって思い返すことができる。飲み会や恋愛、あるいは「ムラ」などの共同体を通して自分とは全然違う属性を持っている人を知る。本来、そうして人間は人間のことを思ってきた。それがいまや人間関係すら目的を至上として再配置されている。

そうして再配置された人々は他者にたいする想像力をなくしてしまう。「自分が許容できる他者だけがカウントされるような社会」において、「そうではない人々」への想像力が培われることはない。そうした想像力の欠如がSNSに流れ込んでエコーチェンバーとなっているのであろう。

 

自由という閉塞

この社会は誰のための社会なのだろうか。そもそも社会の形みたいなことを我々は本気で考えてきたのだろうか。保守すべき自由とはなんだったのだろうか。けだしそんなことを思う。

欧米からリベラルを輸入して自由を一義的な価値とした瞬間に日本社会が失ったものもあるはずだ。それはこれまで漂白されつづけてきた。エロ本をコンビニからゾーニングするように人間すらもゾーニングしてきた。排除アートを見たホームレスが「我々は社会の一員ではないんだな」と思うように、僕らが直接言うわけでもなく彼らに自己批判を促すことで半自動的に社会の周縁部に押しやってきたのだ。似たようなことはありとあらゆる場面で起きており、誰もが身体感覚として感じたきたものであろう。それは時に閉塞感と呼ばれ、僕たちの自由に蓋をしてきた。

 


排除アートはこの社会を象徴しているに過ぎない。ものや人間にタグ付けし、事前の目的をあたえ、適応を存在条件とし、アーキテクチャーによって教育し、マッチングアプリのように再配置していく。それを多様性という金言によって肯定し、目を背けたくなる人を不可視化することに完璧に成功してきたのが日本社会である。
ホームレスの方だけではない。白饅頭氏のnoteに書かれていた青年が女性嫌悪になってしまったように、「自由な社会」の歪みは必ずどこかにあらわれることになる。

自由には、必ず代価がある。

そして、それを支払っている人々がいる。それを絶対に忘れてはならないだろう。