メロンダウト

メロンについて考えるよ

吉本隆明と小山田圭吾に見る時代性への私見

吉本隆明『貧困と思想』を読んでいてこんな一節を見つけた

 

(戦中の心理を振り返る段にて)
国家のために死ねるかという問いにたいして、国家のためというのは僕には軽すぎて、命と取り換えるところまではいかないのですよ。それなら国家のためというのを自分の家族の安全を守るためと言い換えても、それで命と取り換えられるかというと、どうにも軽い。そこは考え詰めたのです。というのもどうせ死ぬと思っていましたからね。徴兵検査が済んだら兵隊へ行って死ぬのは決まっているのだと。先輩達がそうでしたからね。だからそこのところを解いていないと、どうにも自分が定まらないのですよ。自分は徴兵検査して、兵隊に入ったら死ぬのだ、ということ以上の命を考えることは無駄だと思っていましたから、考え詰める。しかしどうしても国家のためとか、家族のため、同胞のためというのは軽すぎるので、どんどんと突き詰めていくと、宗教としての天皇、現人神としての天皇に到ったのです。これとならば命を取り換えられるというのが、僕の戦争中の立場でした。

 

 


今の僕達には理解し難いが、戦中において天皇はある種のリアリティーを持っていたと書かれている。歴史的にも語られることが多い天皇であるが、どうにもしっくりこないところがあった。僕達の今の感覚からすれば天皇と戦争が関係してるのは想像し難い。尊皇攘夷のような話も歴史の出来事としては知っていてもなぜ尊皇なのかという心理に関しては腹落ちしない部分があった。しかし、吉本のこの文章はストンと理解できる。軍部や政府に命を預けるのは嫌だとしても戦争に行かなければならない。そのような現実が先にあり、どうせ死ぬ命なら誰のための命であるべきか考えた時に出てくるのが天皇だったと。天皇は宗教的な存在でありながらもある種のリアリティーをもって人々の象徴だった。吉本はそのように書いている。
似たような話はいくつもある。「どうしようもない現実を宗教が掬う」という心理を持ったのは吉本だけではないはずだ。それぞれの時代に命を賭けるべき価値観が存在していたのだろう。ヴァルハラや輪廻転生のような死後の世界にたいするものから武士道まで、一見して狂った思想に見えてもその時その時代を生きていた人々にとってはリアルな価値判断だったのかもしれない。
それぞれの時代ごとにそれぞれのリアリティーがある。時代が変われば価値観も変わる。手垢がついた言葉ではある。そんなことは誰もが知っているよと言われるかもしれない。しかし、この言葉の意味を我々はどれだけ理解しているのだろうか。あるいは積極的に忘れようとすらしていないだろうか。

最近の小山田氏のいじめ問題を見ていてもそんなことを思う。人間はどの時代においても時流から逃れられない生を帯びているに過ぎないのではないかと。むろん、吉本のような戦中の話と小山田氏のいじめ、及びサブカル露悪系などを並列に語ることは無理筋の議論である。しかしながら誰もが抗いがたい時代の中を生きているという点においてのみは共通していると言ってもかまわないだろう。あの吉本ですら天皇主義者になるしかなかった。それと同じように学校という閉ざされた環境におけるサバイバルが子供たちの中に先にある。はじめに環境がある。時にそれは人にとってどうしようもないことなのだ。
戦時中の日本人が戦争に駆り出されればアメリカ人を殺したように加害行為そのものに焦点をあてたところで何も見えてきはしないだろう。吉本にとって戦争という現実が先にあったように、子供たちにも学校という閉鎖空間が先にある。いじめっ子の考えを理解できないものとするのは、戦時中において天皇が命を預けるべき存在であったことを理解できないのとまったく同じ思考でしかない。理解できないものに蓋をして切断しても何も変わらない。誰がどのような環境の中で生きていて、そこでどのような行動が誘発されるのかと考えた時に見えてくるものがある。まずそれを考えるべきではないだろうか。


大前提としていじめは耐え難い仕打ちであり、精神的な殺人である。それはどんなに時代が変わっても言い続けなければならない。いじめは凄惨であり、厳然たる事実として被害者の精神に刻まれる。それだけは絶対に忘れてはならない。しかしながら被害者の救済という部分に焦点をあてすぎると、どのような構造を持ってして加害行為が行われたのか見過ごすことがある。小山田氏の件に関しても、当時のサブカル論壇の空気などを背景として擁護するような言説は無碍にされ、加害性にのみ焦点があてられている傾向にある。当時のインタビューもその露悪性ばかりが取り沙汰されている。いじめの加害性についても同様に、当時の時代背景や子供という未熟な存在であったことを考慮せず、現在の小山田氏と人格的に連結させる意見ばかり言われる。個人的にはそうではないだろうと思う。当時の小山田氏と現在の小山田氏は地続きではあるものの、同じ人間ではない。人は変わるし、時代の中で価値観も変わる。そうした時代の遷移の中で「彼が現在は高い倫理観を持って仕事をしている」ことも、可能性としては充分にあるだろう。もちろん、このような言説が彼の罪を無きものにすることなどない。犯した罪が消えることはない。そして彼が贖罪することなく今日まで有耶無耶にしてきたのも事実である。そこには一定の苦難が生じてしかるべきであろう。小山田氏の犯したいじめは文章として読んだだけでも凄惨を極めるものであり、行為それ自体を擁護することは到底できない。それでもなおそこになにがしかの背景を見ようとすることはできるはずだ。もちろんそれは他人である我々が知る由もないが、戦時におけるリアリティーのように、あの時代におけるなにがしかのリアリティーがあった。それは容易に想像できることであろう。なぜなら、今の僕達だってネットリンチなどと言いながら一個人を糾弾する時代を生きているのだから。見ようによっては露悪系などが跋扈していたころよりも歪んでいる。なればこそ時代の蓋然性に思いを馳せることができやしないだろうか。そんなことを思う。

 

僕達自身もまた時代が生んだ価値観の中で生きている。それは時に過去の行為や発言を非難するまでに正義として信奉されているし、顧みられることはほとんどない。みな完全にそれを内面化しているし、自分がどのような価値観のもとで発言しているのかを考える人もほとんどいないのだろう。SNSに流れてくるものを見てもそうであるし、コロナ禍の言説を見ても同様である。自らの価値観にたいして自覚的な人はほとんどいないように見える。
価値観が最も顕著にあらわれているのがSNSであるが、価値観が暴走し、実質的にはほとんどいじめのようになっていてもこの指が止まることはない。むしろ年々苛烈になっていくふしさえある。あるいはそうした数の暴力が正しいことだと思っているし、小山田氏のような悪人をスクリーニングしていくことで世界は良くなっていくんだと勘違いしているふしさえある。それが時代だと言えばそうなのかもしれないが、しかしそれって「戦争に勝てば日本は良くなる」と信じていた戦時中の人々と何が違うのだろうか。SNSによって悪人を排除していくことと、戦時における敵愾心はそこまでかけ離れたものではないだろう。もちろんSNSによって実際に人が亡くなるケースは少ない(木村花さんの件なども事例としてはある)ものの、仮想空間における領土争いのような形ではもはや戦時中と言っても差し支えないような事態になっている。
自由が大事だと叫び続けることでいじめのような「人の自由を毀損するような所業」にたいしては烈火のごとく炎上させるようになり、逆説的に人々は他人の自由意志を毀損しないように日々セキュリティーを張って生きていかなければならなくなった。そんな時代にありながら、なぜ時代性を無視し、時間軸を問題にせず、人と価値観を直列で連結させるような言説を疑うことなく言うことができるのだろう。時間を連続的に直結させた場合に牙を向くのは小山田氏よりも、デジタルタトゥーが残る僕達ひとりひとりのほうであるのだ。
僕達もまた時代の蓋然の中を生きているに過ぎない。端的に言って「戦時中に生まれていれば人は誰しもが人を殺す」。言ってしまえば人とは単にそれだけの事でしかない。今この自由の時代を生きている我々は自由の敵である対象を見つけては自由の業火によって滅却していっている。
厭世的に書いているように見えるかもしれないが、そうではない。むしろとても良い時代だと個人的には感じている。人が死なないでかまわない時代は歴史的に見ても稀有な時代である。ここでは単に時代の蓋然性について述べているに過ぎない。

一般に、今の価値観で過去を切り取ることは時に礼を逸する可能性があるのだ。時代のあらゆる側面を事実としてのみ見た場合、吉本が天皇主義者となったような「心理」を見逃す可能性がある。吉本はそれを良しとはしないだろう。それこそ烈火のごとく反論されることは目に見えている。歴史の断片を単に事実として認識し、糾弾することは時に非礼だとすら言える。そのような躊躇があるのだ。それは小山田氏の件に関しても同様に感じるものでもある。
時に人は抗いがたい時代の中を生きている。そしていつしか時代は変わる。しかし罪は残る。それは清算されてしかるべきではあるものの、そこにほんのひとかけらの背景を見ようとしても、かまわないのではないだろうか。私見としてはそのようなことを思う。