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参政党と藍染惣右介〜現実を見ろという言葉の不全性について〜

参議院選挙が迫っている中で参政党が話題にあがることが多くなってきた。


どのような党であるかは古谷さんの記事が最も詳しく書かれているのではじめに紹介したい。

news.yahoo.co.jp

 

記事にあるように参政党の支持基盤はこれまで政治に関心を持っていなかった無関心層だと見られている。

政治よりも仕事というよくある金言を信じて政治に関心を持ってこなかったけれど物価高や社会保障費の増大により仕事してるだけでは生活がよくならないことに気付いた人が多いのだろう。あるいは単純にインターネットが全人的に普及し、Youtubeに投稿されるプロパガンダを見る人間が増えたということもあるだろうか。いずれにせよ、これまで政治に関心を持ってこなかった人達が「目覚めた」ことが参政党が支持を広げている理由だと言われている。


参政党の問題点は多々あって、反ワク・反農薬・疑似科学・オーガニック・陰謀論・歴史修正・排外主義など多岐にわたるが、そのあたりはすこし検索すれば何が問題なのか出てくるので割愛したい。気になる人は上記のワードに参政党を付記して検索してほしい。


ここでは参政党の台頭を見ていて僕が思うこと、とりわけ現実を知れば政治も知れるというのが間違っているのではないか、ということを書いていきたい。


政治に限らずだがよくある正論として「ネットばかり見てないで現実を見ろ」というのがある。ネット論客などに向けられがちな言葉で、ネットの対立構造や極論に毒されると現実の複雑さを忘れ単純化された正論を振り回すようになりがち、というものだ。ネットに限らず、この「現実を見ろ」はとにかく様々なところで言われる。仕事をしない人にたいして言われたり、婚活、転職、車やマンションの購入などありとあらゆるところで言われる。ほとんど宗教的と言ってもかまわないほどだ。50代で婚活は難しい、リボ払いは駄目、残クレでレクサスなんかやめろ現実を見ろ、という具合だ。

厄介なのはこの言葉には反論のしようがないところにある。現実を見ろと言った瞬間に議論は終わってしまう。現実がどうなっているのかは不変であると考えがちで、問題の原因は言われた当人自身の問題に還元されるため、その人の境遇をえぐり、場合によっては自尊心を傷つけ、話は終わる。年収300万でもレクサスに乗りたいと言う人にたいしては現実を見ろで話は終わりなのである。レクサスに乗りたければ1000万稼いでから乗れという答えにしかたどり着かない。個人にとって現実は不変であり、変わるべきは自分自身。そのような言説は絶対的な正論としてネットでも現実でも支配的と言ってよいだろう。

 

しかしながら政治はその現実を変えることに役割がある。現実が苦しい人がいれば多少楽になるように法改正や制度設計を通して現実を変化させる。そうしてすこしでもより良い社会になるよう努めるのが政治のあるべき姿だ。あるいは会社経営なんかも似たような側面があるのかもしれない。


いずれにせよ政治における現実と個人にとっての現実はその捉え方が決定的に違うということだ。

政治は現実を変える力を持つ。しかし個人は現実を変えることはできない。個人にできることは理想の現実に追いつけるよう自分自身を変えることだけだ。

ここから言えることはつまりこれまでの人生で自分をうまく変化させてきた人間ほど政治に疎いということだ。日本社会では現実を生きること、人とうまくやっていくことは端的に言って非政治的なのである。よく政治と野球と宗教の話はしないほうが良いと言われるように社会的であることは非政治的であるし、政治的であることは非社会的だ。

現実がどうなっているのかにたいして批判的な視座を持たず、現実に沿うように自分を変化させることが日本社会では戦略的に最適化された個人である。逆を言えば最適化された個人は現実をいかに変化させるかを考えてこなかった人間であるということができる。

そのような人間は政治的には無垢な存在であり、それが突然、Youtubeの政治動画に触れれば最悪の形で目覚めてしまうことにもなるだろう。今までは現実がある程度安定していたため、それに追いつけるよう努力することが正しい個人の姿だった。そのような時には現実を見ろという言葉は機能する。しかしながら現実が立ち行かなくなった時には現実を変えるよう政治に申し立てるしかない。ただ、これまで現実を取り扱ってこなかった最適化された個人はその申し立て方を知らない。ゆえにめちゃくちゃなことを言い出す。オーガニックや無農薬といった牧歌的な情景が実現可能だと思っているし、ワクチンを打たなくてもかまわないと考えるほど平和主義であるし、差別がどのような結果をもたらすかもよくわからないぐらいには素朴なのである。そうした思いに呼応するように参政党は「すべての素朴な願い」を列挙している。そこに矛盾や政治的な右左の差異があってもかまわないのだ。なぜなら現実を見てこなかった人に「効く」ことが最も重要なことだからだ。それが参政党が戦略的と評される理由である。政党でありながら政治思想を持たず、無垢な個人の都合の良い願いを集積させ、それを票に変える。現実を生きてきた非政治的個人、彼らの願いは言うなれば「なんでもあり」であるのだが、それゆえに理想論を吹聴することが効くのである。

 

良き人々が参政党を支えているといった古谷さんの分析はおそらくはあたっている。自分の周りにも素朴な排外主義者がいて、参政党を支持しているかは知らないが、普段は良い人だったりする。そういう人に良い話(牧歌主義、平和主義、愛国心)はよく効くのだろう。農薬もワクチンもない世界のほうが良い、外国人を排除すれば良くなる、ぐらいに彼らの政治観は素朴でとてもシンプルなのだ。そして人生はえてしてシンプルに考えたほうがうまくいく。政治と個人の戦略、その相性は悪い。むしろ逆だ。個人としてはシンプルに物事を考えるのはライフハックとして非常に有用だがそのシンプルな思考を政治に持ち込むと複雑な現実を単純化しようとして聞こえの良いプロパガンダにハマることになる。

そしてこのシンプルで素朴な政治観はこれからさらに強くなっていくはずだ。推し活、ポジ出し、ホメ伸び、ハラスメント撲滅などにより否定的なことを言うことは社会的に難しくなっていく。そうなれば否定的に考える人間は少なくなり、ポジティブな社会に適用しようという戦略を個人はたてるようになる。そのような現実が支配的になればポジティブな雰囲気を纏う素朴な個人はこれまでよりも多くなっていくはずである。素朴な個人が生まれれば素朴な政治観も同時に生まれる。それを票に変える装置であるインターネットもそのプレゼンスを増していくようになる。参政党はそのはしりに過ぎないと振り返る未来もありえるかもしれない。

その時、僕達はいつまで「現実を見ろ」と言い続けることができるのだろうか。おそらくこの言葉の耐久年数はそれほど長くない。参政党を支持する素朴な人々を見るににつけそんな気になってくる。

 

現実を見ろという言葉はこの短く儚い人間の人生にとってとても強い言葉だ。その言葉が支えになる人もいれば、反骨したり奮起したり、どのような形であれ人にとって強く作用する。ゆえにみな現実を見ろと言うことが正しいと思っているし、実際に正しかったりする。ただ、現実を見ろという言葉は決して万能ではない。そのシンプルさゆえに複雑なことを単純化できると思い込む呪いにもなる。

政治にとってもそうだが、現実にぶちあたっている人にとっても、現実を見ろと言うことはその言葉の強さゆえに人を弱くする。

あまり簡単で強い言葉を使わないほうが良い。弱く見えるから、ではない。その言葉を向けた相手と織りなす世界が弱くなるからだ。