メロンダウト

メロンについて考えるよ

森喜朗の発言を批判する人々による老人差別のほうが深刻だ

なんかまたこういうタイトルにすると逆張りとか言われそうだな。

森元総理が女性蔑視発言をして批判されている。

問題となった発言は「女性がたくさんはいっている会議は時間がかかる」となっている。公務に携わる人間としては論外だけど本人は何が問題かわかってなさそう。

この発言は後に続く文章に「~から女性は会議にいれないほうがいい」となり政治の現場に女性はいらないという主張に接続するから問題発言となる。

この発言にたいして思うことはそれだけで、トップにたつ人間としては不適格だとしか言いようがない。もう政治にたずさわるのはやめたほうがいい。以上終了と思っていたのだけどこの発言にたいして高齢者を持ち出して論を展開するとんでもない増田があった。

老人に価値観アップデートを求めすぎるのもなぁ

賛同するコメントが多いけど完全にミイラ取りがミイラになってる。なんで誰も批判しないのこれ。

老人は価値観をアップデートできない(ので政治から退出するべき)

女性は話が長い(ので政治に参加すべきでない)

のふたつはまったく同じにしか見えない。

個人の資質として政治に参加すべきでない老人もそりゃいるだろう。森のように。それとまったく同じ論理でもって政治に参加すべきではない女性、男性もいる。至極当たり前の話でしかない。政治的資質は個々に判断するべきであって、それを年齢や性別に求めることは完璧な差別である。

老いは政治的資質を判断する材料として持ち出してもよく、性別を持ち出すのが差別だと言うことは矛盾している。おそらくこういった矛盾を矛盾ではないと考えている根拠に「老いると判断力が鈍る」があるのだろう。

しかしそれって女性は話が長いと言うのと何が違うのだろうか。実際に女性のほうが話は長い。良く言えば女性のほうがコミュニケーションをたくさんとる傾向にあることは広く知られている。コミュニケーションに性差があるというのは事実そうである。しかしそれを女性一般の話にして政治的資質として判断するのは間違っている。

老いに関してもまったく同じである。老いると価値観をアップデートできないというのは事実そうなのだろう。まわりの老人を見ていればわかる話で、生理学的な条件ではありそうだ。しかしそうではない人々もいる。老人でもよく考えている人はたくさんいる。なので「老人は価値観をアップデートできない」と言うことは老人にたいする差別である。

老人は女性みたいにハッシュタグつくって騒がないので殴り放題なのだろうけど、こうして見ると森元もはてな民もツイッター民も変わらないな。

女性は殴ってこない時代を生きてきたので女性を殴る森元

老人は殴ってこない時代を生きているので老人を殴るはてな

#わきまえない女とかいうハッシュタグをつくってわきまえない老人を殴るツイッター

 

前々から言ってるけど、結局いまのリベラルは具体性をあげつらってるだけで差別問題になんか興味ないんだよ。過去の人達が女性問題に興味がなかったのと同じで。人間20年30年でそこまで変わらない。価値観をアップデートとか偉そうなこと言っても単に殴る対象が変わっただけ。

老人、犯罪者、芸能人、有名人、なまぽ、パチンコ、タバコ、カルト、不倫などなど。これらは殴ってもOKなので全力で殴りにいきましょう。いまのところヴィーガン反捕鯨団体なども殴ってOKですがこれからどうなるかわかりませんので注意しましょう。女性とLGBTは触れるとハラスメントなので殴るのはご法度です。丁重に扱いましょう。これがアップデート()された価値観です。老人はこれだけ覚えておけばOKです。考える必要はありません。みんな考えていないので。

 

森元の発言自体はとてもつまらないと思ってたけど諸々の批判を見ているといろいろなものが見えてくる。最もメタな視点から言えば人間なんて時代の駒みたいなものでしかないんだろうなというのが最も大きな視座だと思っている。

戦後復興からの高度経済成長期やバブル期には猛烈サラリーマンが讃えられてて、その時代の要請に応えるように男性が身を呈して働き詰めてたと聞くけれど、その働き方に女性はあわなかったのだろう。だから女性蔑視の価値観が醸成された。

一方で今のような少子高齢化社会かつほとんどの組織の上に高齢者がいて、保有資産も高齢者に集中している社会では高齢者が社会的コストになっている。だから老人を排除する価値観が形成される。

逆に社会から排除されていた女性はサービス業などが台頭してくると、その時代にあわせて社会に出てくるようになった。そしてフェミニズムを代表とする女性の価値観が必要となった。つまるところ時代が価値観を要請するのであって人間個人がそれぞれの価値観を持っていると思うのは思い込みに過ぎないのだろう。おそらくは自分も「そういう社会」に生まれていれば「そういう人間」になっていたはずである。

価値観という代物はそのくらい疑ったほうがいい。ましてや具体性をあげつらってアップデートと言っている人々の言う価値観とはいつの時代においてもハリボテに過ぎず、それによって形成された社会も常に砂上の楼閣でしかないと

そのくらいに思っていたほうがいい。さもなければ次に老害となるのは間違いなく僕達だからである。

 

老人への差別発言がこれほどまでに許されている状況はかつてなかっただろう。

理由を考えるにすべてをネットで検索できる時代においておばあちゃんの知恵袋的な知識および歴史、風習には価値がなくなってしまったからが大きいように思う。昔はネットがなかったので老人だけが知っているやり方や生き方、教訓などがあって老人は共同体のなかで重宝されていたのだろうけれど、それらがすべて平面化され無価値なものとなると老人は社会的なコストでしかなくなってしまった。身体的な能力の低下については言うまでもない。

アクセルとブレーキを踏み間違えた老人を「老人だから」という理由で免許返納をうながす言論、価値観をアップデートできないと言って老人を一緒くたにする言論

これらの言論が許されているのは老人を重宝しなくてもよい世界になったからでしかない。その時代の許容度に甘んじて論を展開するのは、昭和期における女性差別とまったく同じものでしかないのだ。

言うまでもなく老人になると能力が低下するのは事実であるが、しかしそれを持ってして「老人は~~~」と言うことはまぎれもない差別である。かつて女性がそう言われていたのと同じように。

 

女性、老人ときて次はどうなるか考えるに次の時代には人間そのものをコストと見なすようになるのではないだろうか。合理主義及び理性主義は今ですら支配的だけれどさらに過熱して「人間に価値ってないよね」となっても不思議ではない。今の僕たちが老人を社会から排除するように仕向けた言論を展開するのとまったく同じフェーズでそう言われてもおかしくはない。

「人間は隠居しててください、資本的にも社会的にも価値はないので。生活するにはベーシックインカムを支給します。差別ではありません。人間の能力を適正に査定した結果、人間は生産性が低いのでかつての老人がそうしたように社会には出てこないでください。」

と、こんな感じの言論が展開されてもおかしくはない。そして今この瞬間に老人を社会から排除しようとしている僕たちはこれに反論する術を持ちえない。なぜならかつて女性や老人を排除した僕たちの価値観がアップデート()されただけだからだ。

今のうちにこうした馬鹿げた差別論にたいして免疫をつけておくべきである。価値観をアップデートというのはその意味でまったくナンセンスなものだ。ただ時代によって差別される対象が変わってきただけである。

つまるところ差別とは100%理念的にとらえなければいけない。さもなければ次に差別され、あるいは虐殺されるのは僕たちだからである。