メロンダウト

メロンについて考えるよ

「うっせえわ」を若者の歌だと考えるのはもったいない

Adoさんの「うっせえわ」が流行っている。はじめに貼っておこう。いや歌うますぎ。

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あまりブログに書いたことはないと思うけど、音楽はけっこう好きでボカロもよく聴いたりしている。ボカロはメロディーが好きなの全般をプレイリストにつっこんで聴いているけれど最近は歌詞が社会的な内容を帯びてきたように思う。

個人的にすごく嬉しいのだけど、せっかくなのでブログでも取り上げて書いていきたい。

 

まず「うっせえわ」の歌詞にたいして大人が批判していることについてだけど

この手の大人の社会にたいして若者が音楽で批判する(ように見える)構造はもう何十年も前からあるもので、それこそチェッカーズ尾崎豊からはじまり椎名林檎Going steadyなど。どの時代にも存在してきた。CDが売れなくなってアイドルがチャートを席捲するようになってからはあまり表には出てこなくなったけど、それでも欅坂のサイレント・マジョリティーや不協和音などでは同様の図式を歌詞に見つけることができた。

Going steadyの「Don't trust over thirty」なんかは自分が若いころにドストライクで聴いていた。大人なんか信じるなといつの時代でも歌われてきた。だからといって「うっせえわ」が陳腐だと言いたいわけではない。「うっせえわ」は大人を批判しているように見える(実際批判もしていると思う)けどそのじつ、自らの虚無を歌っている点で昔のそれとは全然違うものになっているのではないか。

昔は若者の行き場のないエネルギーを歌っていたり、大人になりたくない感情をそのまま歌っていたように思えるけれど、「うっせえわ」では若者かつ大人である自分が抱える内心の矛盾にたいしてを歌っている。それを象徴するのが曲の最後にくる「あたしもたいがいだけどどうだっていいぜ問題はナシ」という歌詞にあるように読める。

天才であるこの私が社会人じゃ常識のマナーを守っていれば問題はナシと、そうやって言うしかない状況を歌っていて、それは叫びにも似たなにかなのだろう。よく聴いてみると「問題はナシとなっている状況が問題」だというメタ構造になっている。問題がないのにうっせえわと叫んでいることに歌詞の核があるように聞こえるのだ。大人対若者として単純に聴くのは大事な点を聞き逃している可能性がある。

これを若者のためだけの歌と考えるのはもったいない。

 

言葉が強かったり歌詞に具体的な内容がちりばめられているので若者と社会との対比を歌っているいつものやつのように見えるかもしれない。しかしそうではないんですよね、おそらく。

こういう歌詞の構造はたとえばヨルシカなどにも多く使われていたりする。

強い言葉を使うことで自らの矛盾をアイロンにかけるように押しつぶして伸ばしていく。メタ構造のようなもので自らの悲哀を歌う。ヨルシカも歌詞の意味を直接的にとらえると若者のための歌に聞こえるかもしれない。しかしそれと同じかそれ以上に大人が大人をやることの矛盾。あるいはもっと大きく言えば人間が人間をやることの自己矛盾を暗喩していると僕は思っている。

ヨルシカで言えば「盗作」が代表的だけれど

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歌詞の内容は物語風になっていて曲を盗んでそれによって承認欲求を満たす「偽性」についてを歌っている。盗んだメロディーでつくった偽物の曲が売れてそれを喜んでいる社会は馬鹿ばかりだと吐き捨てているかと思えば自分もその社会の一員だということに苦しむ様が歌われている。そしてそういう状況にあってもなお「美しいものを知りたい」で曲は終わる。

ヨルシカの歌詞を注意深く見ているとどの曲にもこういった二層構造、ダブルスタンダードにしか生きられない自分自身に苦しむ姿を見つけることができる。非常に哲学的な側面を含んだものになっている。

「だから僕は音楽をやめた」では以下のように歌われている。

間違ってないよな間違ってないよな間違ってないよな・・・

間違ってるんだよわかってるんだよあんたら人間も

 間違ってないよなと叫びながらも間違ってることを自覚している矛盾

「だから僕は音楽をやめた」は直接的に聴くと他責感情に支配された子供のわがままみたいにも聞こえるけれど、そうではない。歌詞の中の人間という言葉は自分自身をも包括しているように読むことができる。

 「八月、某、月明かり」でも次のように歌われている

罪も過ちも犯罪も自殺も戦争もマイノリティも全部知らない

君の人生は月明かりだ
ありがちだなんて言わせるものか

今も、愛も、過去も、夢も、思い出も、鼻歌も、薄い目も、夜霞も、
優しさも、苦しさも、花房も、憂鬱も、あの夏も、この歌も、
偽善も、夜風も、嘘も、君も、僕も、青天井も、何もいらない

君の人生は月明かりだと歌いながら君をいらないと歌う矛盾

 

 こういう自己矛盾に苦しむ様は若者だけのものではない。たとえばたびたび取り上げて申し訳ないけれど、はてなブロガーであるシロクマさんの著書「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて」においても社会と自己の矛盾について書かれている。生理学上のホモサピエンスとしての人間と社会の中での規範的人間という二層構造について書かれている。

あるいはもっと古く言えばフロイトの性倒錯などもそれに当たるのではないだろうか。

実際、僕たちは大人であろうが子供であろうが二重性を持つ生き物であるがそれを言うことができない。社会人的にまともなことしか許されない社会だからこそ人間の二重性を代弁してくれる音楽が逆説的に支持され、うけるのだろう。「うっせえわ」の歌詞がうけているのはそのような部分であって大人を批判する子供の戯言として聴くのはすごくもったいない。

絶対絶対現代の代弁者はこのワタシやろがい

と、歌詞にも書かれているけれど、汚い言葉でだれかを罵倒したりするのはポリコレやコンプラ上、現実社会では不可能であるからこそ音楽というフォーマットにのせて代弁してくれることが痛快なのだ。

僕はもはや若者ではないけれど「うっせえわ」は良い曲だと思った。串をはずすとか酒の席のマナーどうこうに共感できるほどナイーブな年齢でもないのでもはやそれらはどうでもいいのだけど、それらは比喩として使われているだけに聴こえるのだ。具体的な内容を抽象化して聴くともっと深いところの「そういう諸々」という意味で歌われている。その内容にたいして僕はものすごく共感するところが多い曲だと思ったし、それは多くの大人でもそうなのではないだろうか。

こういった日本社会の倒錯性は大人でも共感しうるものだと証明している代表的なアーティストにミスチルがいる。

名前からしてMr.にchildrenがついていて矛盾しているのだけど、曲の中でもそのようなものを見つけることができる。たとえばミスチルの知られざる名曲one two threeの歌詞にもヨルシカやうっせえわのような自己矛盾が書かれた箇所がある。

高らかな望みは のっけから持ってない
でも だからといって将来を諦める気もない
ぬるま湯の冥利と分別を知った者特有の
もろく 鈍く 持て余す ほろ苦い悲しみ

「分別を知った者が持て余す悲しみ」という部分は「うっせえわ」で歌われている内容と酷似している部分がある。「うっせえわ」では優等生で天才のこの私でも苦しいのだと歌っている。分別を知るの部分と優等生は同じ意味をもつ言葉となっているが分別を知ってもそれでも悲しいのだと、それでも苦しいのだと、この悲哀はなんなのだろうかと自問しているのが現代人にはとてもよく響くのだと思う。分別で割り切れるほど簡単ではないだろうと。

 

いろいろ考えてはみたけれどたとえこのどれもが間違っていたとしても「うっせえわ」という一言はとても痛快なことだけは間違いないと思う。たとえそれを言われる側であったとしても、である。

それよりなによりどうでもいいけどマカロン食べたい

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