メロンダウト

メロンについて考えるよ

コロナ禍における保守主義の必要性、あるいは保守のリベラル化

コロナウィルスを軽視すること及び保守主義についてです

 

小林よしのり氏を筆頭に保守界隈で「コロナはインフルエンザよりも怖くない」という言説がたびたび聞かれるようになった。はてなでは一顧だにもされない保守論壇だけど、僕はけっこう好きだったりする。虎ノ門ニュースとかの界隈には近づかないようにしている(というかあれは保守ではない)けれど保守思想そのものはけっこう好きだ。

さておき、この手のコロナと共存して社会をまわしていこうといった言説はコロナ初期から言われてきたことで、三浦瑠璃さんや東浩紀さんなども緊急事態宣言には慎重な意見を当時は言っていた。ニュースピックスなどの左寄りのメディアでもウィズコロナといった言葉が使われていた。右左ともに過度な自粛には慎重な姿勢を示す人々が一定数いる。

社会をほとんど閉鎖してしまう緊急事態宣言にたいして慎重になるのは当然と言えば当然だけれど、どうにも最近その様相が変わってきたように思う。

保守主義者が緊急事態宣言に反対するのは主張としては妥当だと思うけれど、問題はその主張の内容にあるように思える。それを確認したい。

小林よしのり氏の言っていることは次のようなことである。

「欧米などで大量の死者が出ていることをもとにサンプルを集め、そのデータで数理モデルを組んでも日本には通用しない。」

日本では一年近くたった今ですら例年におけるインフルエンザの年間死者数を超えていないのでインフルエンザのほうが怖いと言っている。この程度のウィルスで社会を閉鎖するのは間違っていると。小林よしのり氏は言う。

これに関してはわからなくはない。実際、死亡者数が日本に限ってみればものすごく少ない。

ファクターXと呼ばれる要因でアジアでの死亡者数が少ないのは春から言われていたことで実際に人種による差異があるのかもしれないのでそう考えるのもわからなくはない。ただ、それもいまだ憶測の域を出ない以上はエビデンスのある数理モデルを軸に政策をうつのは当然だと思われる。

なので小林よしのり氏の主張に僕ははまったく賛同しないのだけど、彼の主張を見ていて思うのは保守がリベラル化したというところにある。

保守というとナショナリズム愛国主義と結び付けられてしまいがちだけれど、たぶんに自然主義的な側面を持つ思想なはずだ。保守は変化を嫌って今ある価値に重きを置くと考えられていたり、時に老害扱いされたりすることもあるがそれほど単純に切り取れるものではない。

リベラルがエビデンスをもとに合理的・理性的正しさを主張する一方で保守主義の社会的役割は変化のダイナミズムにブレーキをかけることだと思っている。リベラルは時に人間の存在そのものを無視した正しさを振り回すことがある。ヴィーガンなどもそうであるが、正しい社会を構想してもそこに人間が落ち着くまでにはあらゆる段階を踏んで漸進しなければいけない。つまりリベラルがなんらかの正しさを持ち出してもそれをインストールするにはもともと人間がどういったものかを土台に考える必要があるということだ。

そのためには人間そのものに関する理解・一般解・常識を確かめることが必要になる。人種、慣習、生活様式が国ごとに違うのでそこに生きる人々の過去に軸足を置いてこそ人間は人間をやれるのだと、保守とはつまりそういうことだと思っている。だからよく保守界隈では「棹をさす」という言葉が使われる。調子をあわせるという意味だけど、時流が人間をおいていきそうな時代においては過去に棹をさして調子をあわせることが必要になる。なので保守界隈では時にリベラルから見ると意味不明な反論を展開してしまうことがある。それが正しいとわかっていても人間の実存を考えた時にその正しさにはブレーキをかけなければいけないので反論「しておく」ということがある。僕自身もたぶんに保守的な側面があるのでブログで例を出すと

ハラスメントはダメだよねと思ってはいるものの全部をハラスメントと言うのはどうかなと言ってみたりする。本気でハラスメントが許されるものとは当然考えていないが、自分自身に反論をたてておくことはとても大事なことだと思っている。

しかしこういうのも一歩間違えればエクストリーム擁護みたいなことになりがち(というのはこのブログが証明しているけれど)

なので保守の考えを言語化するのはとても難しい。えてして人間にたいする理解なんてものはバラバラだし国家観も違っていたりする。ましてや僕みたいな人が風習や慣習を語ったとしても感想以上のものとはならない。それでもなんとか論をたてておくことが社会的に必要になる。さもなければ世界は理性のみによってならされていくことになってしまう。なにを人間にとっての価値とするか、なにを自然的な価値とするか、なにをその国独特の価値とするか、なにを守るべきでなにを守らないべきか、そういったことを考えるのは非常に困難だけれど保守すべきは何かを語ることはとても重要なことだったりする。

グローバリズムが席捲した今でこそ保守や右翼のことをなにかと馬鹿にしがちであるけれどそうではない。保守があってこそリベラルの主張が社会にインストールしうると、僕なんかはそう思っている。

 

以上のような考えで先の小林よしのり氏の言論を見ていく。すると小林よしのり氏のやっていることは数理モデルにたいする「反論」であって保守よりもむしろリベラル的な言論となっている。もちろん保守がデータを持ち出してはいけないと言いたいわけではない。しかしながら保守がまずもってやるべきことは今のような緊急事態宣言においてどうやって社会を社会のまま存続させるのかを主張することだろう。

慣習や生活様式に重きをおく保守の小林よしのり氏は社会がダイナミックに変わっていくことに危機感を持っている。それは正しい感性だと思うけれど、それにたいしてエビデンスとも言えないエビデンスで反論するのはいただけない。死亡者が少ないのはいまだ感染爆発をおこしていないからであって、日本で感染爆発が起きたときにどれだけの死亡者が出るのかはまだわかっていない。第3波に関してもギリギリで持ちこたえている状態である。なので日本におけるコロナの死亡率が実際のところどのくらいなのかよくわかっていない。以上のような状態なのでサンプル(感染爆発時の日本における死亡者数)がないことをもってして論をたてるのは間違っている。

もちろん緊急事態宣言に保守は反対しておくべきではある。人と人が会うことを国家が禁止することは下手すればとんでもないことになりかねない。なので社会を保守するために、たとえエビデンスがなくても緊急事態宣言にたいして反対することは保守として正しいと思う。

しかし今の社会では「エビデンスがないことは言うな」が当たり前になっている。だから小林よしのり氏もエビデンスとも言えないエビデンスを持ち出して反論しているけれど本来そうではないと思うんですよ。コロナに関するエビデンスは専門家の方にまかせればいいのであって、もっと人間そのものに棹をさしたコロナ論のようなものが保守から出てこないかなと思っているのだけど、なかなか見つけることができない。

人と一緒にいることそのものの価値だったり人間の実存的なつながりや共同身体性はもっと原理的な権利であるとかそういったもので反論するほうが保守らしいと思うのだ。こういう事態なのでエビデンスがないものは科学的ではなくデマゴキーとなるからやめたほうがいいと思うかもしれないが、そうではないんですよね。科学や理性が「人間にとってみたら結果としてデマゴーグである」ということは往々にしてある。緊急事態宣言にしても科学的な観点から言えば全員がひきこもるのが最も良い方法で実際に中国ではそうしていた。しかし僕たちはそうではない。全員がひきこもることは自由と私権に反しているので多くの人が反対する。自由も私権も科学的ではないがとても重要なことはみな知っているはずだ。それらはコロナを抑え込むのには必要ないものだが日本人が日本人として生きるにはものすごく重要なものだったりする。

つまり科学的に自粛が正義となった時には日本にとって保守すべき「価値観」によって反論するのが保守のすべきことではないだろうか。緊急事態宣言のような画一的な空気が大衆を規定しはじめそうな時にこそ保守は必要とされている。

科学的なデータは専門家の方々がいるのでそれをもとにした政策をうてばいいと思うけれど、ただ「ここに人間がいるよ」と言うこと、そして人間はどういう存在なのか、それ自体の大切さをもっと考えたほうがいいような気がしているのだ。

保守も、そしてリベラルも。