メロンダウト

メロンについて考えるよ

保守としてのリベラル(解放)とは何か~弱者男性問題から考える共同体~

突然だが人格には四面性がある。集団的、公共的、個人的、私人的の4つである。これら4つの側面、その均衡によって人格は成り立つと、西部邁氏は書き残している。
集団的かつ公共的な側面において人はペルソナ(仮面)を被る必要があり、その一方で私的で個人的な欲望を持ち合わせてもいる。その均衡を持ってして社会的人格は成立する。昨今のネット論壇などを見ているに「社会的人格」などと書くとそれだけでマサカリが飛んできそうではあるけれど、昨今話題の弱者男性論もこの社会的人格が崩れていることに端を発しているのではないだろうか。そのように思えてきたのだ。

僕達の社会から共同体が失われて久しいが、それと同時に集団への帰属意識も失われた。さらにグローバリズムにより国家への帰属意識も失われた。概念としての共同体や国家が消えた世界では集団的かつ公共的なレベルでの人格を形成することは難しくなった。集団性と公共性が喪失した結果、僕達は私的で個人的な存在でしかなくなり、人格を形成する四面性を均衡させることができなくなった。均衡が崩れ、集団的な風習(コモンセンス)も消え失せたので個人の欲望が剥き出しになっている。
東浩紀氏が『動物化するポストモダン』を書いてからずいぶん経つけれど、我々はもはや社会的人格を持たない。動物としての個人が転がっているだけとなっている。そのきわめつけとして、個人的なことを直接政治に請求する「人権家」が現れることになる。
「保育園落ちた日本死ね」が最もわかりやすい例であるが、個人の問題を一足飛びに国や行政に請求するのは、もはや共同性という概念が考慮すらされていないからであろう。「女をあてがえ」も構造として同じ問題となっている。個人と個人の契約として成立する自由恋愛以外の術(共同的恋愛)がなくなった結果、女を国へ請求するという「動物的に飛躍した意見」が生まれることになる。
以上のような社会はもはや持続可能なのかという問いすら出てくる。個人の問題をすべて国や社会の問題と見なし、還元していけばいつか必ずパンクする。それは目に見えている。経済的にはもちろん、思想的にもである。
今でこそ悪習として知られるムラや共同体は何のためにあったのか、それを思い返すべきであろう。近代以前に戻れと言いたいわけではなく、「ムラの存在意義」を問い直すことで僕たちが今置かれている状況が逆説的に見えてくるはずである。
昨今話題の弱者男性女性論争に関しても重要な視点となるはずだ。

そもそもムラとは何のためにあったのだろうか。よく言われるのは、今のような生産体制のない社会では人と人が助け合う必要があるため、必要に迫られて条件的に存在していたというやつだ。近代になって生産体制が拡充され、インフラが整備された結果、個人がムラを必要としなくなったので皆ムラから出ていき、衰退した。これが通説であるが、いっぽうでこれは生活レベルにおける条件でしかない。ムラの機能はそれ以外にもあった。人と人を巻き込んでいく機能だったり、子育てにおける互助関係、婚姻を取り持つ関係などなど。そこで生活している以上のものがムラにはあり、その繋がりが個人の欲望を「変質」させていたのであろう。自らの欲望よりも共同体の存続に重きを置くという「望み」が上位にきたり、自らの原義的な性愛よりも物語の中に恋愛を見つけていたりと。共同体や関係性により個人が個人ではなくなることで、自らの欲望から解脱するという機能がかつての共同体の「思想的役割」であったのだろう。それは程度問題として今でも変わっていない。社内恋愛など同じ組織の中で恋愛が始まるのは今ですら一般的である。その意味で、共同体の機能を僕達は忘れてしまったわけではないだろう。
しかしながら共同体というと保守のものとして見られ、先進的なリベラルから見れば否定的に見られることが多い。政略結婚やお見合いなどを引き合いに出すことで、個人の自由と人権に反するという意味で否定的なものとして扱われてきた。いわゆるリベラル的観点から言えば個人の自由意志に重きを置いている為、ムラによる半強制的なつながりは敵だった。しかし共同体による関係性は「肯定的」につながっていた側面もある。否定的な側面も確かにあったけれど、そうではない側面もあったはずだ。
ようするに共同体の思想的役割は個人を関係性へと開く機能であった。個人が個人でいる限り個人は個人としての欲望しか持ちえないので、彼を関係性へと開くことで動物的な欲望から解放することができる。それを持ってして彼は人格の四面性を均衡させることが可能になり、「社会的人格」を持つことができる。
今はどうなっているかというと、多様性という旗のもとに個人の自由意志を認め、すべてを個人の自由とした結果、個人が個人のままゴロンと転がっているだけとなっている。すべての加害性を排除することで、かつての共同体がそうしていたような欲望の変質は暴力と言われるようになり、個人は個人のやりたいことをやり、生きたいように生きるべきと言われている。
しかし、そのような理想的社会とはようするに人間の動物的欲求をそのまま発揮させる社会でしかない。個人でいる限り、自由とはつまるところ欲望でしかないのだから、欲望の多様性を認めたところでそこに広がるのは動物園に過ぎない。そして、我々のような動物は社会という飼育環境に何かあると動物園の管理会社、つまりは国に直接請求することになる。そのような社会に無理がくるのは至極当たり前の帰結でしかないのだ。
一方で、我々は動物であって動物ではない。動物的欲望を変質させることで「善き者」へと変身することができる。それにはなにか媒介が必要であり、それがかつては共同体であったし、はたまたヘーゲルが言うところのナショナリズム、つまり国であった。そんな大きなものではなくても友人関係だったり恋愛関係だったりも欲望を変質させる機能を持つが、ようするに我々が個人でいる限り、国に管理され欲望を発散するだけの動物に過ぎないのだから、まずその「欲望の在り方」を見直すことから始めないと本質的には何も変わらないであろう。

このような欲望の状況こそが今議論されているような弱者男性問題に接続すると思っている。ここで言われている弱者がどこから来ているか考えるに、その起源は「動物を閉じ込める檻」がそのひとつとして数えられる。
リベラル的価値観によって個人がバラバラに分断されると共同体の人格形成機能が喪失し、欲望を変質させることができなくなる。また、欲望を変質させようと望んでもリベラル的社会においては他者に侵入できないので共同体やパートナーといった媒介を見つけるのが難しくなっている。ようするに動物的なものはリベラルという檻に閉じ込められ、管理されている。それが今の社会のありかたである。管理する側にとって望ましい動物(的欲求を持つ人間)であれば檻の外に出られるが、たとえば男性の性欲のような動物性は管理下に置かれなければならない。そのようなデザインへと社会を塗り替えていっている。ハラスメントやキャンセルカルチャーなど例をあげればきりがないが、このような構造が弱者男性の「思想的監獄」となっている。こうした構造がフェミニズムとリベラルが相性が良い理由であり、弱者男性論者とリベラルが対立する理由でもある。


このような檻から抜け出すためには動物であることをやめなければならない。ようするに人格を形成する媒介を取り戻すべきであり、社会がそれに応えるだけの土壌を持つ必要がある。それには檻を壊す必要が出てくる。もちろんそうなれば一定程度の諍いや衝突があるだろうけれど、人格の四面性に均衡というプロセスがある限り、一定程度の衝突は避けようがないし、避けるべきでもない。さもなければ僕達は人間ですらなくなってしまうであろう。

このような保守的なアプローチによって考えるべきなのはなにも弱者男性論に限った話ではない。

そもそもこの社会が持続可能なのかという最もクリティカルな論点だと思っている。


※蛇足
プラグマティズムに実存は本質に先立つという言葉がある。我々人間は本質(弱者性、男性、女性)が先にあるのではなく実存(身体)があるだけで、先天的には無であるという考えであるが、今となってみればこのような考え方がとても大切だと思っている。
女は女として生まれてくるのではなく女になる。男も男として生まれてくるのではなく男になるという観点から言えば、「変質性」を考慮しないで個人を「現在の個人」としてしか見ない今のリベラルのありかたはとてもじゃないが支持できないのだ。人間は動物であると同時に動物ではない。可変的な存在であるかぎり、社会が人間を変質させる機能を持つ必要がある。それが共同体の役割であった。その意味でプラグマティズムは保守を基礎づける考えでもある。そして人間は先天的に自由だという意味においてはリベラルを基礎づけるものでもある。
つまるところ人間は可変的だという想像力なくしては、保守もリベラルもその思想そのものが成立しないのではないだろうか。