メロンダウト

メロンについて考えるよ

西部邁『虚無の構造』がインターネットを語るうえでかなりの名著だった件

亡くなられた西部邁さんが書き残した『虚無の構造』を読んだのだけど思いがけずインターネットのことについて書かれていたので紹介がてら何か書いてみたい。

著書の中ではインターネットという単語すらほとんど出てこない。著書の主題は虚無、ニヒリズムについてである。ニヒリズムがいかにして我々の生や主体を覆っているのかについて書かれている。その構造が昨今のインターネットを取り巻く「雰囲気」を見事に説明しているのだ。ほとんど予言していると言っても過言ではない。

 

はじめに我々の生がいかにして虚無にさらされているのか著書の内容を紹介してみたい。

インターネットでも実生活でもそうだが、生き方や価値観が相対主義という地平にさらされると自己を確立することが難しくなりすべてが平面化されていく。その意味で自己の確立をみな諦めてしまう。そうした自己の喪失=消極的ニヒリズムに社会は覆われていると書かれている。相対主義とは最近ことあるごとに言われている多様性などがそれにあたるかと思うが、自分と他者の価値を比較することをせずにすべては個人の経験による偶然に過ぎないと結論づけ、価値の確立や比較を放棄する様だと著書では書かれている。普通、自己を考える時には他者との比較のうちに自己を見つけざるを得ない。しかしそれが許されない。男性と女性を比較することもできず知と無知を比較することもできないどころか善悪を語ることさえも時に許されない。すべては相対であり他人には他人の価値があり自分には自分の価値があるのだという理想的空想の中に生きているかぎりニヒリズムからは逃れようがない。それが相対主義によるニヒリズムであり、他者を通した価値の模索をあきらめて自己を自己の中に頽落させれば虚無に飲み込まれるしかない。価値を語れなくなった時にすべては無である。

というのが著書の主題であるように、僕は読んだ。

相対主義 - Wikipedia

 

この話がなぜインターネットの話に接続するのかと言えば相対主義こそがまさにインターネットで語られる「正義」と完全に合致しており、その正義ゆえに人々がニヒリズムへ誘われるという構造になっているように読めてしまうのだ。

たとえば著書に以下のような箇所がある。引用したいけれどページ数を忘れてしまったので覚えている範囲(というか読書をしてる時に書くメモの内容)で、およそ次のようなことが書かれている。

統計的に水平化された他者の価値のうちに自己を投射するのは極めて受動的であるのに、それが能動的な社会へのかかわり(アンガジュマン)かのように偽装されているのである。

適応の作法とでも言うべきものであるが、僕たちはほとんどが実際のところの差別だったりを知らないで生きている。とりわけ人種差別には日本人のほとんどが無縁なまま育ってきた。であるにもかかわらず、誰かから言われた知識や価値観および理性によって差別はいけないと僕たちは考えなければならない、とされている。差別のようなものであれば理性が支配的であってもかまわないし、そうあるべきだが、しかしもっとベタなもので考えればどうだろう。相対主義によって社会適応しすぎた結果自己を見失い虚無に飲み込まれている人間は思いのほか多いのではないだろうか。理性的な選択として恋愛しない人であったり、もっと一般に加害性そのものへの強烈な嫌悪がこの社会を覆っているのは間違いないことであり、その意味で無=虚無が正義となっているのがネット的言論の源泉にある。

 

こういった「虚無の理性」によって人々の思考が均されていくと状況適応主義とでも呼ぶべき判断でしか人は物事を判断できなくなる。状況に即した意見、状況に応じた振る舞いを要請され、それに従うことで人格的な主体は失われていってしまう。その意味でインターネットの理性主義、状況適応主義、世論主義が支配的になればなるほど人々は自己を失い、もっと言えばニヒリストになるしかないのである。

こうした構造には続きがあり西部さんは次のように書かれている(れいのごとくページ数を忘れてしまったのでおよそです)

適応主義を実践すると価値分裂症になり人格的一貫性は失われニヒリストになるが、これにたいする対処方法は「忘却」である

社会の価値基準がめまぐるしく変化しようとも我々は忘却することで時代にコミットし続けている。インターネットのそれと完全に合致する言説のように僕には見えてしまう。

ネットの人々は忘却することで歯車を回し続けている。ツイッターはてブもブログもマスメディアも過去の投稿が見られることは極めて稀である。インターネットは忘却することでその虚無を埋め合わせ、めまぐるしく回転しつづけている。

このような事態を西部さんは「記憶喪失」と書いている。人々は記憶をなくすことで虚無の記憶をデリートしつづけているのだと。それにつづけるかたちで、記憶喪失になると人々は不安になると続けられている。そして不安をなだめるために新奇の情報に触れようと躍起になる。さらに記憶喪失の人間ほどニヒリズムに侵されているため、より政治的な行動をするようになる。と結論づけている。

こうした言論はまさにネットそのものである。幸福になった人間が政治について語ることをやめるというネットの風景そのものだ。最近も似たようなツイートがされていた。

 

 

また、西部さんはつづけて技術的なことについても触れており、以下のように書いている。

現代は事物の技術的連関による革新を加速させることでその不安に目くらましをかけている。不安という大海を漂流しているニヒリストはその技術的革新が高度情報化社会による希望のゆらめきだと勘違いしている。光が揺れているのではなく揺れているのは不安な海を渡っている自分自身だと気づくこともないままに。

これも新奇の情報に触れようと躍起になるニヒリズム的な不安の埋め合わせに近いものなのだろう。

 

ようするに相対主義的な価値分裂症により自己が無くなると適応しか残るものがなくなるけれど、適応とは不安の裏返しに過ぎず不安をなだめるために、より強く適応しようとする。それは技術であったり、情報であったり、社会であったりするけれど、それらは自傷行為でしかないのだと。自分自身のことを鑑みるにあまりにも正鵠を射すぎているような気がしてしまう。

 

こうした虚無の構造に我々はあまりにも無自覚ではないだろうか?僕自身もそうであるが、あまりにも他者や社会というものを杓子定規として持ち出してしまいがちである。差別を反対するにしても僕たちは自分自身の言葉を持っていないのでどこかからひっぱってきた価値観をもって反論する。しかしそれは誰かの言葉の引用に過ぎない。僕たちがやっていることはニヒリズムの断片を言外にまき散らしているだけである。僕たちはことあるごとに多様性だヒューマニズムだ絆だなんだと言っているけれど西部さんに言わせればリベラルの言う多様性やヒューマニズムは表玄関に飾る表札に過ぎず、その裏で鎮座する内実たるニヒリズム取り繕っているに過ぎないのである。

 

こうした思考(自分自身の経験よりも先だって他者の価値を引用する)のことを先験主義と著書では書かれているけれど先験的な思考がいきすぎると実在も当為(なすべきこと)もなくなり、自己が完全に破壊されてしまうことを西部さんは次のように危惧していた。

我々は相対主義や先験主義によるニヒリズムにより実在について想うことを忘れ、当為について考えることを禁句とした。これによりニヒリズムは加速する。

なぜそれが差別なのかを語れないインターネットの在り様と完全にリンクしているように見えてしまう。僕たちは考えることをやめた。自己についてであれ自己と関連した当為であれすべては相対に過ぎず個人は個人なのだという結論にすべてが吸収されていくのである。そこには自己や生にたいする戦慄もなければ他者への緊張感もなく、すべては平面化されていく。人々は個人でありながらもテクノロジーのうえにおいて緩く繋がり、本来の意味の孤独を忘れている。

これに関してp57~58に次のように書かれている

 人々のかかわりは、その本来的な相としては、あたうかぎり希薄になっている。それにもかかわらず彼らは群をなして動いている。テクノロジーおよびシステムが彼らにグリゲアリアスネスつまり群居性を与えているのである。彼らの表情は非本来的な相貌を示している。つまり技術的体系の上に張りつけになったものに特有の、孤立感と寂寥感を見せつけている。しかも、その孤立と寂寥の模様が彼らにあって、同一なのだ。彼らは、「問い」という孤独な作業をなすことをやめたのである。

……[略]……

「生」に肉迫するには、「生」を凝視しなければならず、「生」を凝視するには「生」から距離をとらなければならない。そして、そこに孤独の感覚が生まれる。世人・大衆は孤独を知らずに、たとえば自由・平等・博愛といった観念の雑草を食みながら「牧場の幸福」(ニーチェ)を楽しんでいる。しかしよくみれば、彼らの表情には、本来は自分らのものでないはずの群居性になぜ自分らは従っているのか、という不安が漂っているのである。

 

この文章が特に耳が痛い話だと読んでいて感じた。というかまさにインターネットのことでしかない。問いという作業をやめてすべて検索する人種が僕たちである。しまいにはライフはハックできるということまで言い出す。そして判を押したように誰もが自由や平等を叫び、当為について考えることを禁句とし、従わないやつを理性の炎で燃やしていく。

インターネットを俯瞰するにはかなりの名著だと思う。おすすめです。

しかし西部さんはすごいよ。

「観念の雑草」て、どうやったらそんな言葉が出てくるようになるのだろう・・・

たぶん、というか絶対に自分には一生無理だろうな(ニヒリズム