メロンダウト

メロンについて考えるよ

無力な個人による散文~啓蒙主義にたいする所感~

以前、反啓蒙主義みたいなことを書いたけれど、啓蒙されたいと考えてる人の気持ちもわからなくはないんですよね。世界には無限に頭が良い人がいて、その中で自分がどの程度のポジションにいるのかがある程度わかる情報化社会で生きている限り、自らの無力感に苛まれないわけにもいかない。どんな分野でもそれを生業にしてるスペシャリストがいるしその方々の教えに啓蒙されるのは現実問題としてある程度正しかったりする。もちろんリベラル的な啓蒙がそれとは別の次元で批判されるべきというのはあるにせよ、普遍的な啓蒙主義を見た時に当事者の僕はそれに抗えるほど強い存在ではないんですよね。コロナ禍において科学者の意見に従うように、大なり小なり僕たちは啓蒙されるべき存在として転がっているだけである。いわゆる全体主義的なカルトに啓蒙されるようなことはなくとも、これだけ開かれた社会で生きている限り、強く賢い人間がインフルエンスして群衆はそれに従うのが秩序のありかたとしては正しいのではないかと思ったりもするんですよね。僕自身、啓蒙されるべき無力な存在であって自らが賢いなどと思ったことはないし、このブログで書いていることもただ疑ってかかる「態度」以上のものではないわけで。いつだったかはてブのコメントで「こいつはただの逆張り野郎」と書かれていたけどまあ実際そうなんだとも思ったりするんですよね。疑ってかかること以上の意味などこのブログにはないし、それがヒットする時と自打球になる時が偶然にあるというだけで。実地的感覚として無力なんですよね。意味不明なことにブログの読者さんが700人になりそうだけどこのブログに期待して読まれるほどのコンテンツはないですよ。はっきり言って。自虐的にこういうことを書くのは好きではないのだけど、たまには本当のことでも書いておこうかなと。ブログなんてそんなもんだと言えばそれまでですけど、まあ事実上増田(はてな匿名ダイアリー)みたいなものなんですよね。このブログは。なにはともあれそういった無力感に苛まれることが定期的にある。躁鬱というわけでもないのだけど・・・

自分だけではなくて、煎じ詰めて言えばみんな無力感に支配されてるんじゃないかなと思ったりする時がある。弱者男性に関しても無力感によって恋愛のスタートポジションにもつけないのだろうし。経済的無力感、外形的無力感、性格的無力感、社会的無力感。情報が開かれている以上、人は自らの無力感と対峙せざるをえなくなった。無力感に支配され、「消極的な」ニヒリズムに堕ちていくと、西部さんだったかが書いていたけど、ようするに無力感を過度に内面化してしまうと、恋愛する気力も、ネットで発信する気力もなくなるのであろうなと。政治でもそうで、自らの政治的リテラシーが未熟であることを自覚すれば無力感に苛まれずにはいられない。仕事においてもそうで、人間関係においてもそうであるのだろう。あらゆる場面において僕達は相対化され、そのたびに自らが無力であることを突き付けられる。そして消極的なニヒリズムに陥るか、もしくは意識高い系みたいな積極的ニヒリズムに遁走することになる。

いずれにせよ個人があるがままの姿で居ることはとても難しく、社会のあらゆる階層において比較化、相対化され自らの限界を思い知ることになっている。

いまさらそれが悪いことであると言いたいわけでもないが、それにしても「そいつ」は定期的にやってきては「おまえは無力だ」とつぶやくのである。まあこういうのは若者特有の全能感の敗北と言われるのが精神分析的には正しい解釈なのかもしれない。それで片づけられるほどの話ではなくもっと構造的な問題だとは思ったりする時もあるけれど、いずれにせよ無力な僕にはよくわからないのであった。

こうした無力感が社会に蔓延した結果として出てきたのがサンデルのメリトクラシー批判であったりするのかもしれない。誰かがその努力の末に相応のポジションを得て、以下すべての僕達は啓蒙される存在として生きている。であるならば能力や知性そのもので評価される機構そのものを解体しなければこうした無力感は永遠に資本主義やメリトクラシーの名の元に温存され続けることになるであろう。僕自身はサンデルほど「正義」について知らないので語る言葉を持たないけれど、自らがどうしようもないほどに無力であることだけに関して言えばおそらく、サンデルよりも知っている。そして中途半端に社会に適応しているので、果たして能力や適応を排除していったとして社会が回るのかという疑問も同時に持つ。ようするに僕みたいな無力な個人には「なにもわからない」のであった(笑)そしてわからないなりにブログを書いてみたとてそれが的を射てるか射てないかは単に運でしかないわけで、「運も実力のうち?」というサンデル本の副題は別の意味で僕の脳天にも突き刺さっているのである。

 

「どこに投票しても同じ」という典型的な政治的無力感も同じような話なのではないだろうか。どこに投票しても我々は無力な畜群として啓蒙されるだけの存在である限り、どこに投票しても同じは実に正鵠を射た見解だとも言えるであろう。実際は政治が経済や福祉のありかたを決めるのでどこに投票しても同じということは無いのであるが、「どこに投票しても自らが無力であることに違いはない」という意味では同じなのである。それが正しい態度であるかと言えばまったく正しくない。しかしながらそうした無力感が精神の蓋然としてこの心中ど真ん中に居座っていることは事実なのであろう。僕は比較的政治には明るいほうだと思うけれど、政治に明るくない人達にとって見れば無力という「戦慄」だけがおよそ信じうる真実なのである。

 啓蒙とはとても根が深い。啓蒙されえない存在はおそらくいない。おそらくこれを突破するのは「信頼しうる他者」を探し、無手に啓蒙されても危険ではない状態をつくることにあるのだが、それもまた個人主義が徹底された社会においては難しかったりする。個人は個人でいる限り無知であり、信頼できるかどうかの指標を持たないのでオンラインサロンに飲み込まれたり、オウムに吸い込まれたり、フェミ、リベラル、ネトウヨ、Qアノンなどの啓蒙に堕ちていき、最悪のケースだと無敵の人になり無差別殺人などを起こす。おそらくこの社会を覆っているのは「無力感」である。分野別に見れば僕達はほとんど何も知らない。『この世界が消えたあとのの文明の作り方』にも僕達は何も知らないと書かれていたけれど、いかに専門的な知識を得たとしても別の分野では間違った界隈に啓蒙され取り込まれていく。それを相互補完的に補い合うのが本来の人間であるのだけれど、自由主義者かつ個人主義者である僕達はその相互補完すらも自らの選択という、時に間違う基準でしか選べない。

それによって間違った啓蒙が「通用」することになった。そして間違った個人が生まれる。まともに考えた時に僕達は無力である。なればこそ信頼しうる人間関係を築くことが大切なのであろうが政治的な議論をすると人間関係における適応度を下げることになる現況において、先鋭化したトンデモリベラルやトンデモネトウヨが出てくるのもむべなるかなとも思っているのだ。