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親ガチャと事実主義、あるいは日本社会の静寂さについて

親ガチャという言葉を見た時に思い出したのがキリスト教におけるキエティスム(Queitism、静寂主義)であった。
親ガチャは人生の苦悩と連動している言葉であるが、歴史的には人生の苦悩を取り扱ってきたのが宗教であることは間違いなく、そこから受け取るべき考え方もあるだろう。そのひとつにキリスト教の静寂主義がある。
 
静寂主義とはようするにキリスト教の救済論に関するものであり、祈りを通じて救済を得るという考えとは異なり、誰が救済されるかは生まれた時にすでに決まっているとする立場である。無私、自律、徹底した受動性と静けさを体現することで自我を消滅させることで苦悩を超克する態度であるが、こうした態度はキリスト教の規律などの意味そのものを無きものにしかねないため、異端とされた。神の恩寵によって救済されるという他力救済論を採用するキリスト教であるが、自我そのものを徹底的にそぎ落とす静寂主義は自力救済に近い態度であったため、キリスト教の立場そのものを脅かしかねないと考えられたためだろう。
静寂主義は思想的には仏教に近く、神が存在する仏教というとすこし乱暴であるが、およそそのようなものであった。
 
「神が存在する仏教」そして「静寂、静けさ」
これは親ガチャという言葉が影響力を持つ日本社会にもかなり重なる部分があるのではないだろうか。
 
静寂という言葉ひとつとって見ても日本社会と通底する部分がある。日本は静かになった。
暴走族が消え、電車の中で騒ぐ人も消え、どこに出かけても街は整然としており、喧噪はゾーニングされている。大声で怒鳴るような人もほとんどいなくなり、一部で問題とされるハラスメントもそのほとんどが作法の問題として出てくるだけである。あるいは怒りそのものがマネージメントされ、個人は自律するのが良いこととされ、雑多な関係性そのものを回避する個人主義がおよそ支配的である。社会にあって「私」が許される場所は少なくなり、本当の意味でカオスな場所はほとんど無くなりつつある。
そうした社会の中にあってとにかく静かであることが美徳とされ、ノイズを徹底的に排除してきたのが日本社会である。それはリベラル社会と言われたり、清潔な社会と言われたり、道徳的な社会と言われたりする。とにもかくにも日本社会は静寂主義がそうであったような無私の思想に覆われており、「私」は適切な場所で発露されるべきとされている。
こうした日本社会の様相とキリスト教における静寂主義は重なる部分がある。無私、自律、受動性などの諦観を持って現世の一切をほとんど問題とせず、宿命論的にすべてを判断する思考のもとに出てきたのが「親ガチャ」なのであろう。
 
社会のバックボーンとして、静寂主義と日本社会は重なっている。キリスト教における祈りとは、現代風に言えば夢などの価値通念がそれにあたるかと思うが、「祈っても無駄」という静寂主義と「夢や人生の成功が生まれによって決定している」というサンデル的な能力主義批判は、思考プロセスとしてはほとんど同じだと言って良い。
現代社会は親ガチャなどの言葉からも見て取れるように「ネタバレ化する社会」だと言える。すこし前で言えば恋愛における「ただしイケメンに限る」「ハラスメントだと感じる基準は美醜に依存する」や、大卒と高卒の生涯年収、地方と東京の格差といった身も蓋もないネタバレがすでにあらゆるところで言われる社会である。それ自体を個人として否定するのは簡単である(例えば整形したり努力したりすれば個人の問題は解決する)が、しかし社会全体として厳に存在することは間違いない。そうしてすべてをネタバレ化していった先にあるのが「無私の思想たる静寂性」なのである。
ベタに言って僕達は夢を見なくなった。夢を見るとはつまり適切な努力とプロセスの先にある達成物であり、それは原義としての夢とはすこし異なっている。子供が見るような夢と、現実で言われている夢はその意味がずれてきている。大人の言う夢とはある程度のリアリティーを伴っていなければならない。音楽をやりたいと言ってカラオケに通っているだけと言えば馬鹿にされるように、音楽を夢見る人はバンドを組んだりDTMをいじったりオーディションを受けていなければならない。そうした事実の積み重ねによって達成されるのが現代における夢であり、それは物事によっては厳密に定義されている。定義、つまり事実である。事実らしさがない夢は夢として語れない。そうしたリアリズムこそが「事実」を基礎づけるものとなっている。事実、つまり実現可能性がないものを夢とは言ってはいけず、仮に言えば未熟な人間と認識されることになる。日本社会は事実に覆われている。その「事実の最終回答が親ガチャ」なのだ。
 
このような事実に覆われる社会というのはとても根が深い。たとえば想像力という言葉ひとつとって見てもそうだ。社会から想像力がなくなっているというのはネットの誹謗中傷などを中心によく言われる言葉である。しかしもはや想像する環境を僕達は持たないのだ。言葉には言外がなくなり、日常のあらゆるサービスもその人の役割が定義される社会において人に想像力を働かせるべき瞬間がほとんどない。大卒はここ、ブルーカラーはここ、ここにいる人物はこういう役割を帯びており、この場所にいるということは云々かんぬんといった親ガチャ的な「遡及」によってその人物を定義することが可能なのだ。そのような思考の簡素化は無意識に行われている。人間はフラットな状態で物事を見るようにはできておらず、先入観によって色をつけて判断せざるを得ない。それはバイアスと呼ばれたりするが、しかしそのバイアスの一切を克服したとしても事実からは逃れられない。事実というバイアスに逆らうことは現代社会にあっては不可能だと言えるが、しかしその事実こそがまさに問題なのだ。僕達は事実を強化すればするほど想像力を持てなくなる。日常において多様な個人を包摂し、多様な能力を評価すると言っても、資本主義が高度化し、専門性に特化した職業ばかりになるとそこにいる人物を定義することは容易になっていく。それが事実をさらに加速させていく。そうした無意識の事実主義によって人は人にたいして「想像力を働かせなくても事実に頼れば良い」思考を内面化していくことになる。そしてそれはほとんど的を外さなくなってきている。事実として評価された個人がそこに配置されるという最適化を行えば行うほどに事実はその事実らしさを強化していくことになるからだ。
それはある意味では完成された社会に向かっているとも言えるが、しかし完成された社会にあって想像力を働かせることは難しいどころか無意味になっていく。そうした無意味さ、虚無こそが親ガチャという言葉の説得力を増していくことになり、今日の反響に繋がっているのだろう。親ガチャというネタバレ、事実主義が陥る静寂主義、無私の思想、そして資本主義、これらはは厳密に連関している。資本主義的な再配置を加速させ多様性を定義すればするほど社会は事実のみによって認識することが可能になる。そして、「事実から漏れた人」を事実主義によって炎上させるのだ。炎上させることによって逆説的に僕達は僕達の事実性を、井戸端会議的に確認し、慰めあうのである。
 
僕達はもはや「祈ることができない」。神は死んだという意味においてもそうであるが、神の存在そのものをもはや仮定することすらできなくなっている。事実として神はおらず、事実として個々人の能力は出生に依存する。そのような事実に覆われた社会にあって正しい態度とは静寂に身を委ね、宿命論的な諦観に身を寄せ、「分をわきまえる」ぐらいしかないのであろう。そのような態度はいわゆる旧時代的な夢や努力という価値観とは対立するものであるが、しかし夢や努力が解剖されていった結果として出生という事実が極めて重要なことが明らかになったのが現代なのである。それはキリスト教におけるキエティスムと似通っている部分がある。キエティスムではキリスト教における戒律や礼拝を無意味なものとして恩寵に預かれるかは事前に決まっているとし、現世の一切は無意味なものとする。別の言葉で言えばそれは「自由」であり、無私や自律というのも自由と連関している。現世における振る舞いを問題にしないで自由に生きて良いというキエティスムはまさに現代における多様性と完璧な相似形なのだ。夢が解剖され、事実に覆われた世界にあっては「自由しか残らない」。祈ることが無意味になり、現世が個人の欲望を発散するプレイグラウンドになるとはつまり動物化するポストモダンとも言える。法を犯さなければすべての欲望は肯定される。法とは社会であり、そこでは社会と私が厳密に切り分けられ、自由は私的な領域においてのみ行われるという価値観が支配的になる。そして社会は「静か」になった。個人は自律した存在でなくてはならず、そのような健康的な社会にあって異常な個人は即座に発見される。メンタルヘルスにおける鬱病発達障害などを筆頭に、ネットの炎上もその一部でしかない。この社会は静寂でなくてはならない。それはキエティスム的な事実主義によって厳密に振り分けられているからだ。多様性という言葉はその定義を加速させることで個人をタグ付けし、認識を容易にしていく。そしてまた事実が強化される。
 
すべてが連関しているのだ。自由、事実、静寂、親ガチャ、多様性、夢、メンタルヘルス、祈り、キエティスム、炎上。これらの「現象」によってお互いがお互いの繋がりを強固にしていっている。あるいはここに新型コロナウィルスを追加しても良い。
いずれにせよ僕達が暗に形成しているこの事実らしさは様々な障壁を生んでいる。しかし僕達は事実から逃れることができない。事実と反することを言えば疑似科学と言われることになるが、しかし疑似科学ポストトゥルースといったものが出てくるのはこの事実主義への逆流現象と見ることもできる。僕達は事実にうんざりしている。それは僕だって例外ではない。この社会の厳密さ、定義、タグ付けといった自由主義から逃れる自由を常に探しているのだ。それが疑似科学ではないことは確かであるが、しかし、真の意味でポストトゥルース的な価値観が必要とされているのではないか。
親ガチャという言葉を価値通念的に横断した時、そのようなことが考えられはしないだろうか・・・